甘口辛口

在家仏教とは?(2)

2011/9/30(金) 午前 8:34
在家仏教とは?(2)

それ以来、私は回覧誌を届けるために毎月一度、久保田冬扇の個室をたずねるようになった。彼とはその度に暫く話をしたが、それは冬扇の方から何かと声をかけてくるからだった。彼は、この療養所で療養すること15年という古参患者だったが、所内に親しい友人がいないらしかった。

彼に友人がいないのは当然かもしれない。なにしろ彼は重症患者として個室で寝たきりの状態にあるのである。仮に「療友」が出来たとしても、彼らは15年の間に次々に死ぬか、退所するかして姿を消しているのだ。

冬扇は医療保護を受けて、公費で入所している患者だったが、彼のところには、見舞客もやって来ないようだった。だが、その彼にも実家があり、肉親縁者がいるはずだった。彼が自分の身の上や、家族について、口を緘して語らないところをみると、実家との間に何か複雑な事情が介在しているのかもしれなかった。

久保田冬扇が療養所内で孤立し、外の社会との関係も切れているとしたら、無収入の彼はどうやって、謄写版の器具一式を購入したり、「ともしび」というガリ版刷りの個人誌を定期的に発行することができるのだろうか。彼は謄写印刷に使うヤスリの板を小型に切断したものを使っている。あのヤスリ板は何処にも売っているようなものではなく、特注品だった。とすると、彼は、誰かの手を煩わして鉄工所にヤスリ板を切断する仕事を依頼しているのである。

(久保田冬扇には、隠れた後援者がいるのではないか、そして、その人物はこの療養所内にいるのではないか)と思って、古くからいる患者にその点について尋ねてみた。

「奴は頑固だから、周りの仲間と喧嘩して孤立しているけどね」と古参患者は教えてくれた「だが、ファンもいるんだ。奴の世話をしている若い付添婦がいるらしいよ」

療養所では、中年の女性を付添婦として雇い入れて、手術後の患者の面倒を見させている。中には若い女性も少数だが混じっていて、その一人が久保田冬扇のファンだというのである。彼女は勤務の暇を盗んで、冬扇のために個人誌の配布など、いろいろな雑用を引き受けているという。

私はその付添婦が誰か突き止めないうちに、手術の日を迎えた。そして空洞のできた肺の摘出手術を受けて、故郷の実家に戻ってきた。療養所を退所する前に、久保田冬扇の個室を訪ねて別れの挨拶をしたら、彼は自分もそのうちに退所して余生をのんびり暮らしたいものだと明るい表情で語った。

「ここを出たあとのプランは、二つあってね。一つは四国にある長生き村に移住して、百姓をすることなんだ」
足腰が弱って、車椅子を使わなければ動けない冬扇が土を耕して百姓をするというのである。冬扇は、私の苦い顔色を見て話を変えた。

「もう一つのプランは、舟に乗って東京湾で暮らすことだけどね。エンジンを取り付けた舟なら、座ったままで、どこにでも行けるからね」

病気が治ったら、舟を買って、船上生活を送りたいという夢を以前にも彼から聞かされたことがある。しかし、舟に乗って海で暮らすなどという話は、百姓をするという計画以上に無謀だった。だから、以前にその話を聞かされたときにも、私は聞き流していたのだ。冬扇の語ることは、どれもこれも途方もない夢のような話ばかりだった。そもそも、ここまで病み衰えた冬扇が療養所を退所できる訳がないのである。

私は実家に戻ってからも、後に詩人になるTや久保田冬扇と文通を続けた。二人の手紙によると、私が退所してから療養所には変革の嵐が吹き始めたようだった。厚生省は福祉予算を切りつめるために、手術後の患者の手当を付添婦に分担させる制度を廃止して、療養所を完全看護制にする改革を進めはじめたのだ。

そして私が退所してから4年後の昭和34年には、厚生省による制度改革の一環として、冬扇のいた十五病棟を移転させることになった。これが完了するまでに多くのトラブルがあり、重症者たちの病棟主任看護婦に対する不満が強くなって行った。この時、久保田冬扇は重症者グループの代表者として、先頭に立って主任と闘った。気負った彼の行動に多少の行き過ぎがあったことも事実だったらしい。

その頃、Tからも、この問題を報じる手紙が来たが、その内容は冬扇に対して批判的なものだった。手紙には、こんな一節もあった。

「いつものことながら、冬扇氏の独りよがりの行動は困りもので、彼は皆の顰蹙を買っています」

クリスチャンのTは、前々から在家仏教論者の冬扇にいい感情を持っていなかったのだ。

――十月一日、久保田冬扇は、突然病室に入ってきた看護婦に注射を打たれ、頭が朦朧としているうちに療養所の入口に待機していた輸送車の中ヘタンカで運びこまれた。そして、ロボトミー手術をすることで精神病者達に恐れられているS精神病院に移された。

普通なら患者自治会は療養所側のこうしたやり方に対して、人権侵害だとして強硬に抗議するはずのところだった。だが、患者自治会が沈黙を守っていたところをみると、冬扇の行動には誰が見ても気違いじみたところがあったのである。

もっと釈然としなかったのは、Tが療養所内に流れている冬扇に関するうわさ話を知らせてくれたときだった。冬扇を精神病院に送り込んだ後で、彼の寝ていたベットを調べたら、枕の下から数万円の金が出てきたというのだ。40にもなる男が、10万円足らずの金を持っていたとしても何の不思議もない。それが久保田冬扇の場合になると、妙な噂になって患者の間に流布されることになるのだ。

精神病院に一年半「監禁」きれた後に、久保田冬扇は精神病の疑いも晴れて別の結核療養所に移された。この頃に、彼は私宛に長い手紙をよこしている。私はこれまでにこんな長い手紙をもらったことがない。ぎっちり文字で埋まった便箋用紙が、20数枚も束ねてある手紙だった。冬扇自身も、手紙の末尾に「この手紙は、毎日、日課のようにして書いたものです」と付け加えている。

その手紙の中で、彼は十五病棟の移転問題が起きてから現在に至るまでの事態の推移を事細かに記し、最後に、「私は行雲流水の心境で、行政のいうままに何処へでも流れていくつもりです」と結んであった。私は冬扇に対する行政の措置にも、それを座視している療養所の患者たちにも怒りを感じた。

久保田冬扇が、わずか一年間のつきあいしかない私のところに、こんな長い手紙をよこすのは、よくよくのことではなかろうか。私は幸いにも教員として復帰することができて何とか暮らしている。彼の身柄を引き取って、面倒を見てやるべきではなかろうか。

私が真剣になってそんなことを考えているうちに、冬扇から打って変わって元気な手紙が来た。その手紙には手札型の写真が同封してあった。冬扇が車椅子に坐り、膝の上に毛布をかけ、カメラの方に向って微笑している写真であった。

その写真には、冬扇の車椅子を押している20前後の若者も写っていた。冬扇が老けて写っているので、写真のなかの若者は祖父の車椅子を押している孫のような感じだった。前の療養所では個室にこもって寝てばかりいた冬扇が、新しい療養所では若い患者とも仲良くなり、車椅子を押して貰って外に出るようになっているのだ。
冬扇は、手紙の中でこんなに元気になったから、そろそろ年来の計画である舟上生活の実現に取りかかりたいと書いていた。私は、これならもう大丈夫だと思った。舟で暮らすという計画は夢に終わるだろうが、その夢が彼に生き甲斐を与えているとしたら結構なことではないか。

その後、冬扇は療養所で在家仏教者としての活動を始めたらしく、一、二度、ガリ版刷りの個人誌を送ってきただけでその後消息は絶えた。

それから4年間後、久し振りに冬扇から年賀状が届いた。その年賀状の差出人の住所を見て私は仰天した。こうなっていたのである。

「神奈川県債須賀市何々通り何々商店前に繋ぐ久保田丸」

冬扇は宿願を果たして舟を買い、それに「久保田丸」という名前を付けて、横須賀の運河か何かの岸に繋いで暮らしているのである。私は驚いて、その住所にあてて手紙を書いたが、それは宛先不明の符箋がついて返送されて来た。

(つづく)