まなざしの地獄(1)
インターネット古書店の目録を見ていたら、見田宗介著「まなざしの地獄」という本が載っていた。早速注文する。題名だけを見ると、これはスリラー小説のように見えるけれども、著者の見田宗介は東大名誉教授という肩書きを持つ社会学者だ。私が一時期、社会学を本格的に勉強しようと思い立ったのは、見田宗介の著書を読んだからだった。それ以前に、フロムやリースマンも読んでいたが、読み物としての面白さという点では見田宗介の著書が群を抜いていたのである。
他人のまなざしを圧力として受け止め、対人恐怖症風の反応を示す男女が多い。女生徒などが、トイレに行くにも一緒という「トイレ友達」を作るのも、周囲からの「眼差しの圧力」に対抗するためなのだ。二人で行動していると、「眼差しの圧力」は正確に半分に軽減する。三人で行動している時には圧力は三分の一になり、周囲からの視線はほとんど気にならなくなる。
皇太子妃が「愛子さま」と行動を共にするのも、「圧力半減」法則のためではないかと思われる。私は自分の体験から、そのように考えるのだ。
昔、私が勤務していた高校で、重要書類か何かがなくなったことがある。警察がやってきて現場に残された指紋を調べ、その後で、教職員全員の指紋と照合する方針を打ち出した。それで、私たちは指紋を採取されるために、帰宅後に順次警察署に出頭するように指示された。
私は事件とは無関係だったが、帰宅して、いざ警察署に出頭する段になると、いやな気分になり、(仕方がない、出かけるか)と自分を鼓舞しなければならなかった。玄関に出たら、家の前で娘が一人で遊んでいた。娘は当時三歳か四歳だった。
「百合」と私は娘に声をかけた、「一緒に街にいくか?」
すると、娘は直ぐに、「うん、行く」といって、こちらの手につかまりに来た。小さな幼児と手を繋いで歩いていると、警察署に行くことが、どこかの遊園地に出かけるよう思われてきた。相手がどんなに小さい幼児でも、二人一緒に行動していると「圧力半減」法則が働いて気が楽になるのだ。私はこうした過去の経験から、皇太子妃が「愛子さま」と行動を共にするのは、娘を保護するためというよりも、自分を守るためではないかと考えたのだ。
しかし見田宗介は、その著書で「眼差しの圧力」そのものについて書いているのではなかった。彼は永山則夫による無差別殺人事件を分析するために、「眼差しの圧力」を取り上げたのであり、「まなざしの地獄」と題したこの本の実質は、永山則夫論だったのである。
私は、既に自分のホームページで永山則夫のことを何度も取り上げている(注:ホームページ最下段の「ブログ甘口辛口全リスト」(http://tao.matrix.jp./kaze)をクリックすれば、「永山則夫の周辺」「死刑囚と結婚する女」という項目がある)
見田宗介は、その永山則夫論の中で、永山を家郷から閉め出され、都市からも閉め出された余計者としてとらえている。永山は「楢山節考」に登場する老人たちと同じだというのである。
<・・・・たとえば「おばすて」のようなかたちで、共同体はみずからの過剰の人口を処分してきた。市民社会はこのおなじ老人たちに、密室や施設の中でひっそりと死をえらばせる。都会はスマートに殺す。
「封殺」という野球のプレイは、ランナーに直接手をふれることなしに、生きる道を封じて生残を断つことである。一塁に走者がいる。打者の打球を二塁に送れば、走者は自動的に「死ぬ」。彼らの生きる根拠となる「塁」は、このばあい一塁一つしかなく、生きようとする者は二人いるのであるから、打者は否応なく走者を殺して生きようとする他はない。
だれかが飢えなければならない。
近代の社会科学の分析は、このような正確さにみちている。過剰人口。社会的淘汰。不適応。「脱落者」。一定比率の 「病理」現象(「まなざしの地獄」見田宗介)>。
見田は、永山則夫を共同体から二重に閉め出された余計者だという。永山は故郷・都市から捨てられただけでなく、家族からも捨てられていたというのだ。確かに永山は、母からは邪魔者扱いされ、兄たちからリンチに近いいじめを受け、二人の妹から嫌われていた。私は永山の「無知の涙」をついに読み通すことが出来なかったが、それにはこういう一節があるという。
<私の母と名乗りかたっている人が、・・・二人の男を、あの家に、嫌悪の家に中学二年から三年の春頃にかけて連れこんで、そして私を近くにある映画館へ二、三百円の金を握らせ追っぱらったこと・・・・
そして、上京が近づくにつれて、母と名乗る御仁と二人の妹は、私があの長屋から消えたら『赤飯タイテ喜ブ』とはしゃいだものである>。
永山則夫の家族は、法廷で彼を極刑に処して欲しいといっている。そして、永山が死刑になった後に、その亡骸を引き取ることを拒否している。それで永山の遺灰は、彼の遺言に従って永山の妻の手でオホーツク海に投じられている。
永山は、外社会からも、家族からも閉め出され、自身を拒否された人間として位置づけなければならなかった。彼は冷たい視線に取り巻かれ、まさに「まなざしの地獄」のなかで生きていたのである。彼がその地獄から脱出するために、繰り返し密航を試みた心事はよく理解できるのだ。
だが、永山は日本からの脱出を願いながら、同時に世に受け入れられることを求めていた。彼は集団就職した仲間の中では、最も早く背広を着て、ネクタイを締めた一人だった。都会で育った若者たちが、フォーマルな格好を嫌ってジャンパーの下にセーターをを引っかけているときに、青森の田舎から出てきた中卒のボーヤが精一杯背伸びをして、背広にネクタイをつけて粋がって見せたのだ。これ以上、滑稽な光景はなかった。
高級品を身につけることを好んだ彼は、タバコも外国製のポールモールを吸っていた。雇い主の奥さんが、それに目をつけて、「珍しいタバコね」というと、永山は、「ちょっと、カザリのために」と答え、奥さんから続けて、「学生なの?」と問われたときに、彼は、「前はね」と答えている。
永山は19歳の時に窃盗で逮捕された。この折りの所持品は、次のようなものだった。
ピストル、ローレックスの腕時計、ロンソンのライター、鉄製クシ、明治学院商学部の学生証、質札二枚等。
警察が中野区若宮の三畳のアパートを調べたら、以下のようなものが出てきた。
残高ゼロの預金通帳、シェーファーの万年筆、パーカーのボールペン、アメリカ製ボストンバッグ、等々。
(つづく)