甘口辛口

詩人と詩人が結婚したら(3)

2012/2/22(水) 午後 10:41
詩人と詩人が結婚したら(3)

子供を作るのは簡単だったが、お金を作るのは大変だった。三木は、三人に増えた家族を養うために考えられ得ることを全てやった。詩や詩論以外にも、児童向きの物語を書き、市販商品の宣伝コピーを書き、外国文学の翻訳をして、懸命に稼いだ。

三木が大車輪になって稼いでいるとき、Kにも変化が現れ始めていた。育児に夢中になったのだ。

<事実母親が夢中にならなくては、こどもは育たない。Kは、本当に夢中だった。童話を次から次と読んで聞かせ、こどもが描いた稚拙なパステル画を見て、「この子、天才やないかしら」とひとりで呟やいたりしていた。ぼくは冗談だと思ったのだが、とてもそうとはいえないような目をしているので、そういうKがちょっと不安になった>

Kは娘がかなり大きくなってからも、パジャマのボタンを上から下まで全部かけてやり、食べ物を匙で口まで運んでやっている。こんなに手をかけて育てたら、どうなるだろうか、自分で生卵一つ割れない子になるのではないかと、三木は不安に襲われた。だが、Kは三木の意見に耳を貸さず、夢中になって子育てにのめり込んで行くのだった。

娘が幼稚園に行くようになると、三木の不安が的中した。娘は園に行ってもシャツのボタンがかけられず、友達と遊ぶことも出来なかった。一人で砂場の片隅にじっとしゃがんでいるだけなのだ。

その娘が破傷風で閉鎖病棟に入ることになったので、三木夫妻は病棟に詰めていることになった。Kは、看病の傍ら大きなスケッチ板上の紙に、しきりに何か記入している。三木がそれは何だと訊ねると、「発作の記録をつけているのよ。このギザギザした線が発作中、横線は平穏だった時よ」という答え。

見れば、ケント紙のような紙には、細かい記号やフニャフニャ線や横線がびっしりと書き込まれている。紙に複雑な記号を書き付けているKを見て、三木は、これは危ないと思った。彼はKを自宅に帰らせたが、これが悪かったらしかった。Kは、まだ冬の最中なのに、桜並木のつぼみがふくらんでいると感じ、そう感じたとき「子供は死ぬ、夫も死ぬ、わたしも死ぬ」と直感して現実感を失ってしまった。

一人になって病棟に残っている三木のところに、自宅から電話がかかってきた。Kにとって姉貴分にあたる友人の一人からの電話で、彼女はKから呼びつけられて三木夫妻の家に走ったら、Kが錯乱状態になっていて、「一家全滅よ、私は三木に何もあげられなかったから、娘を生んであげたけれど、それも何もならなかった」といって泣いているという。

Kは、日ごろ自己中心的に振る舞っているにもかかわらず、実はとても細い神経の持ち主だということに三木はやっと気づいた。どういうわけか、Kは大家族の一人として生まれながら、自分は一人きりだと決め込んでいるらしかった。自分の味方は、血のつながっている娘しかいないと感じていたから、その娘が危機に瀕しているのを見て、彼女は正気を失ってしまったのだ。

娘の病気が治り、三木と娘が自宅に戻ってきてからも、Kの精神状態は半年くらいのあいだ異様だった。それでも彼女は彼女なりに、心の危機を切り抜けるには音楽を聴くしかないと思いこんだらしく、毎日LPをかけるようになった。だが、それが決まってエルトン・ジョンの「ユア・ソング」だった。三木には、「ユア・ソング」のLPに顔を寄せて必死になって耳を傾けているKが恐ろしかった。

出産後のKのもう一つの変化は、それまですっかり放棄していた詩を、再び作り始めたことだった。

Kの詩について、三木にはにがい記憶があった。
同棲を始めた頃、Kが詩の草稿を見せてくれたので、三木は、「このへんの言葉、こんなふうにすると、もっとよくなるよ」と助言した。その時には、Kは「そうね、ありがとう」とにこやかに礼を言っていたのに、30分ほどして異様なものを感じて彼が顔を上げてみると、そこには激怒の目で彼をにらみつけているKがいたのである。

「何よ、あなた、詩のことなんかなにもわかっていないくせに。あなたは骨の髄まで散文的にしか考えられないから、あんなことをいうんだわ。ここの言葉の飛躍こそが生命なのよ」

詩を書き始めたKは、もう二度と三木に草稿を見せなくなった。

Kが詩を書き始めたのに少し遅れて、三木は小説を書き始めた。せっせと小説を書いている三木を見て、Kは、「小説はあなたには無理です。やめときなさい」と決めつけた。

<ぽくは、しゃかりきになって小説を書いた。団地の六畳間で書いていると(注:三木一家は抽選に当選して団地に移っていた)、Kは苦しげな表情になった。やがてKは、自分からぼくのために西荻窪に学生下宿を探して来てくれた。そんなことは珍しいことだ。宿賃と食費で五万円ぐらいあればやっていけた、と思う。
ぼくは、入ったばかりの公団住宅で書く方がいい、と思ったが、Kは行け、といった。
・・・・そこへ行って仕事をした。たしかにそのために仕事は、はかどった。具合のいいことのひとつは、孤立している人間の目を得たことである。妻やこどもといっしょに暮しているなかで書いていると、微妙なことだが、家族という共同体の利害の影響をうける。それから解放される。作品にそれがどうあらわれているか、具体的にはいえないが、書いている自分は、自由を感じ、この方がいい、と思った>。

詩作を再開したKは、34歳の時に、「優しい大工」という第一詩集を出している。三木から見ると、彼女の詩には東京での職業生活に対する拒否的な姿勢が溢れていた。彼女は始終周囲に対して怒っていた。Kは三木のところに洗面器と歯ブラシを持って押しかけてくる一年前に、十二指腸潰瘍を患って会社を休職し、故郷に帰っている。病気は精神的なストレスから来たものだった。

Kが三木のところへ転がり込んできたのは、溺れる者がワラをもつかむ心境からだった。彼女が同棲するやいなや会社を辞めてしまったのは、当然のことだったのである。

「優しい大工」の後半は、子育ての苦労と、それ故に一層幼児に執着する心境が描かれていた。母親というものは世間の母親のように、子供を適当に放り出しておくことも必要ではないか、と三木は考えた。だが、Kは子供を外界の空気にさらすことを恐れ、人工的な環境に閉じこめすぎている。

<「優しい大工」を出すときには、一悶着あった。そのころのぽくは失業者で、現金は、やっとためこんでおいてあるものが五十万円しかなかった。これは、いわば虎の子である。
「わたしの詩集を出してよ」
ある日、いきなりいわれた。え。それはちょっと無理ではないか。家だってあえて家賃の高いところへひっこしたのだし、せめてぼくの稼ぎがあるようにならなくては、預金を使うことは出来ない>

もう少し待ってくれないかと三木は頼んだが、Kは全く取り合ってくれない。

<「今すぐなの。だって女は、若いうちに出さなくてはだめなのよ。そうでなければだれも認めてくれないんだから」
さあ困った。ぼくは、自分の詩集を出していてそれは好評だったし、そのために五万円も使っていた。彼女はそれをいわないけれど、「自分ばかり出して何よ」という気持が言外にこめられていた。
「せめて、もう二、三月、待てないか」
「待てないわよ」>

(つづく)