底部からの視線
「下からの平等論」を唱える深沢七郎の影響を受けた訳でもないだろうけれども、伊藤整も「底部からの目」についてエッセーを書いている。彼は二つの具体例を提出して話を進めているので、まず、その具体例というのを見てみよう。
例証の一つは、太宰治の小説から引用されている。
その小説の主人公は、友人の勤めている事務所を訪ねたが、直ぐには相手に会うことが出来なかった。それで、事務所で働いている娘たちを眺めていたら、そのなかに実にいい顔をした少女がいたというのだ。
<その少女は美しいというのでもなく、愛嬌があるというのでもない。しかし見た「私」をはっとさせるような、何ともいえない、いい生命にあふれた顔をしているのです(「魅力ある顔」伊藤整)>
やがて友人が現れたので、「私」は一緒に外へ出て、事務所の門のあたりで立ち話をしていた。程なく引け時になって、目の前を社員が次々に通り過ぎていく。「私」は、さっきの少女がいないかと注意して見ていると、彼女が現れた。すると、その少女はびっこだった。
例証の二つ目は、年配の夫人からの聞き書きによって構成されている。
その夫人は汽車に乗って旅行中に、向かい合いの座席に座った少女と話を始めたのだった。その少女は美人というほどではなかったが、何ともいえないほど魅力があり、大変に聡明でもあったから、相手の名前と住所を聞いて書き留めておいた。夫人は後に知り合いの青年にこの少女を紹介したら、青年も彼女を気に入り、二人は結婚して幸福に暮らしているという。その少女も、足が悪かった。
伊藤整は、この二つの具体例を持ち出して、問題の二人の少女が魅力のある顔と表情を持つに至った理由は何だろうかと自問し、こんな結論を出すのだ、「それは、人生を底部から理解している人間の持つ表情の輝きだ」と。
そして、彼はこの二人の少女と、五体健全な娘たちを比較して、こう書いている。
<健全な身体を持つ少女は、そこを当然の立脚点として、もっと美しい容貌になりたいとか、もっと似合う着物を着たいとか、よいお婿さんと結婚したい、という、より以上の幸福への欲望を持っていますが、自分の存在の根本のことを忘れているのが常です。自分が何か、ということが分っていないのです>
伊藤整は、足の不自由な少女が魅力的な顔を持つに至ったのは、人生を底部から理解しているからだという。では、「人生を底部から理解する」とは、どういうことだろうか。
彼は、普通の娘たちを、「自分の存在の根本のところを忘れている」と評している。では、「自己存在の根本」には何があるというのだろうか。
(つづく)