底部からの視線(2)
伊藤整が、「人間の底部」とか、「自己存在の根本のところ」とかいうとき、その「底部」だの「根本のところ」が意味するものは、何なのだろうか。
彼は「中央公論」の依頼で、新興宗教の本部に乗り込んでいって、教団に関するルポルタージュを書いたことがある。そのとき、本部で見かけた信者たちの印象を彼はこんなふうに書いている。
<・・・・男女の顔がみな同じような表情に見える。遠慮なく言えば、エゴも判断力も弱い、そしてまた意志も弱い、金の苦労や夫婦ゲンカや病気のために打ちのめされ、それを何か神ホトケにすがり、誰かの助言にすがって解決しょう、自分ではトテモ駄目だ、と思っている種類の、即ち日本の庶民階級に特有の服従心の篤い善良な人々である。・・・・・この人たちの中を歩いているうちに、ふと心が変り、オレはこの人たちと同じだ。いつ心がくじけて信心するか分ったものでない。私たちは、このような人々の中から出て、多少の学問をしたり、リクツを言ったりすることを心得ただけだ。この人たちこそオレの原型だ、全くこの世には人のカの及ばない苦しみが多いですからね、と悲しくも思うようになった>
困難にぶつかると、すぐ神や仏にすがってしまう心弱き庶民がいる。そして、その対極には、自力で実力を強化して競争に勝とうとする人間がいる。「健全な身体を持つ少女は、そこを当然の立脚点として、もっと美しい容貌になりたいとか、もっと似合う着物を着たいとか、よいお婿さんと結婚したい、という、より以上の幸福への欲望」を持っている「五体健全」型の娘を典型にするような心強き人々である。
人間存在の底にある「根本的な本体」は、心弱き階層と心強き階層それぞれの背後にひそんでいるのではなかろうか。
すべての生命体は、欲求充足のための諸能力を持っている。人間もその諸能力だけで生きて行けるのに、それだけでは不安に思って神や仏に頼ったり、天賦の能力を磨いたり鍛えたりして自己を強化しようとするのだ。
老子は、宇宙を貫く根源的な法則である「道(タオ)」が、すべての人間に生存のための基本的な知恵と能力を授けていると強調する。だから、人は放って置いても、鳥が自然に空を飛び、魚が自然に水を泳ぐように、まわりの仲間と助け合って穏やかな生涯を送りうるのだ。人間は平凡な日常に喜びを感じ、それだけで充ち足りるように出来ていると老子は断言する。
ところが人間には、生得の原型的な生き方に満足できず、衆に抜きん出た存在になろうとする欲求がある。平凡な生活に軽侮の目を向け、独り上座を狙う上昇欲求を持っている。老子にいわせると、こうした人間は一種の病人であり、自ら破滅を求める「死の徒」だということになる。原型的な生き方に満足できない人間は、安全な母港を捨てて荒海に乗り出し、難破する愚者のようなものだというのだ。
老子は、世俗が善とする生き方──現状に甘んじないで意欲的に行動する努力家−−−を評価しない。上昇欲求を放棄して、普段着の楽な姿勢に戻ることを、彼は「帰根」「復命」と呼び、タオの定めた原型的な生き方に還帰することを、「早服」といっている。老子にあっては、世俗の常識が完全に逆転していて、刻苦精励する生き方を捨てて、イージーな生き方、楽な生き方をすることこそが善なのである。
なぜ楽な生き方をするのが善であるかといえば、そこに生まれる余力が他者への慈愛として振り向けられるからだ。老子は、自分には三つの宝があると語っている。上座を狙わずに下座に甘んじ、悪あがきしないで節倹に努めていれば、他を愛する余裕が生じる。だから、下座にあること、節倹すること、他者に慈愛を注ぐことの三つが「三宝」だというのだ。
──伊藤整は、64歳の若さで死んでしまうのだが、病が重くなったときに、「オレは馬鹿だった、馬鹿だった」と激しく自分を罵っていたという。ガンという死病にとりつかれてから、はじめて彼は自らの上昇的人生を振り返り、これからは、「静かな老人の生活をしたい(「病中日記」)」と考えるようになった。そして、長男に、利根川沿いの田舎にある古くて大きな農家を探すように頼んでいる。彼は、そこに隠居して、老後を穏やかに暮らす心算だったのである。
北海道生まれの彼は小樽高等商業を卒業してから、旧制中学校の英語教師になったが、東京に出て詩人として作家として一旗あげたい野心に駆られ、そのために貯金を始める。
下宿代を浮かせるために宿直室に泊まり込んだり、夜間学校の教師を兼ねるなどして、月給85円の身で、2年後に貯金を1300円まで殖やしている。大正14年に就職した若者が、2,3年の間に1300円まで貯金を殖やすなどということは、常人には到底考えられない荒技なのである。
上京した伊藤整は、一橋大学に入学する傍ら、詩や小説を書き始める。目先の利く彼は、当時ヨーロッパで流行していた新心理主義の文学理論を文壇に紹介し、この理論に基づく実作を発表して注目を集める。
戦中・戦後の食糧難時代には、半農生活をはじめ、菜園から収穫する豊富な野菜と飼育している山羊の乳で家族を養っている。ここでも彼は、目から鼻に抜けるような怜悧な生き方をしている。
戦後に、「女性に関する十二章」でベストセラー作家になった彼は、以後死ぬまで次々に評判作を発表し続けた。「チャタレー夫人の恋人」の翻訳で起訴されたりしたが、それもかえって彼の文名を高める役割を果たした。作家として、伊藤整ほど順風満帆な人生を送った人物は少ないのである。
にもかかわらず、彼は内心で自分が「人間の底部」「本来の人間性」から逸脱して、競走馬のような生き方をしていることを感じ続けていた。だから、太宰治の作品や知り合いの婦人の話から、足の不自由な娘にこそ魅力的な表情が宿ることを知ったとき、この娘たちは自分が抱いているような上昇欲求を持たないが故に、人を引きつける顔を持ち得たのだと彼は悟るのだ。
伊藤整は、「群像」に発表した「病中日記」の中に、自分が涙を流す場面を書いている。一つは、妻に生死について話しているうちに涙が止まらなくなったという場面であり、もう一つはそれから一ヶ月ほどして自分はガンではないかと感じたときのことだった。彼は妻や息子たちが、決してガンなどではないと保証してくれるままにそれを信じていたが、癌研の付属病院に入院する話が出てきたことで彼は真実を知り、涙を流したのである。
──私が本当にいい顔だなと感じたのは、戦時中のグラフ雑誌でみたインドネシア人少女の顔だった。この少女は、船越保武の彫刻を見るような静かで清純な顔をしていたのだ。もう一つは、テレビで見た水木しげる夫人の顔だった。
水木しげる夫人はテレビのインタビュー番組に夫と一緒に顔を出していた。水木しげるが、「現世は、地獄だ」といい、「特に現代の日本は」と付け加えたりすると傍らに控えていた夫人が、インタビュアーの思惑を気にして、夫を軽くたしなめる。
水木しげるは、「私は周りからバカだの低脳だのと言われていたので、自分でもそう思っていたが、私は本当は頭がいいかもしれない、才能もあるかも知れない」という。そして、自分が輸出したいほど幸福になったのは、不真面目に生きてきたからで、石ノ森や手塚治虫は真面目すぎたから早死にをしたのだと語る。
夫人が結婚当座の貧しさを語ると、水木は、「それが今は、あっという間に巨万の富が出来てしまった」と茶化す。すると夫人は、「オーバーなことを言わないでよ」と夫の膝を叩いてたしなめるのだ。夫人は、穏やかで静かで、何ともいえないほどいい顔をしていた。特に、微笑を絶やさない彼女の温顔が絶品だった(水木夫妻を描いた「ゲゲゲの女房」というテレビ・ドラマで夫人に扮したのは、目玉がぎょろぎょろした女優だった、これは大変なミスキャストだった)
インドネシアの少女も水木夫人も、天与の諸能力だけに甘んじて、それ以上に求めるものを持たないから、ああいう静かないい顔になったのではないか。求めるものを持たない人間だけが事実唯真の世界にあり、それ故に表情一つで人を魅することが出来るのである。