佐多稲子の「裸足の娘」
佐多稲子は、太平洋戦争の始まる前年の昭和15年に、「裸足の娘」という小説を「書き下ろし」形式で発表して、ベストセラー作家になっている。この作品は、発売1ヶ月の間に16刷して、7万部を売り上げたというから、純文学作品としては珍しいことだったのである。
当時、中学生だった私は、人から借りるかしてこの本を読んだが、あまり興味を感じなかった。戦時下の娘の日常を描いた小説だったから、これという事件も起こらず、何と言うこともない日々の些事を連ねただけで終わっている作品だった。唯一の救いは、あのころの小説に共通する戦意高揚のための無理な筋立てがなく、戦争とはかかわりのない平凡な娘の、温和な生活が描かれていたことだった。
数日前、ふとしたことから電子書籍化しておいた「裸足の娘」をパソコンで読んでみた。実はまだ読み終わっていないのだが、途中まで読んだだけでも、びっくりするようなことが書かれていたのである。
繰り返すけれども、記憶の中にあるこの作品は、戦時下の生活を淡々と描いた何の奇もない小説だった。あれっと思うような部分は、作品の中に一つもなかったはずだった。にもかかわらず、読み返してみたら、唖然とするような話が次々に出てくるのだ。
第一に、これは佐多稲子の自伝小説なのだった。私は漠然と次のように考えていたのだ、「窪川稲子」という女流作家は、15歳の少女の日記を手に入れて、これを下敷きにしてこの小説を書いたのではないか、と。作品は、「私」という一人称で書かれているし、その「私」の言動には、確かなリアリティーがあったからである。
だが、「裸足の娘」は、まがうことなく自伝小説だった。ヒロインの姓は、窪川ではなく著者の結婚前の旧姓「佐多」になっている。これ以上、確かな証拠はないではないか。
佐多稲子の父親は裕福な医者の子供に生まれながら、医業を嗣ぐことが出来ず、家族を東京に残して瀬戸内海沿岸の相生に出稼ぎに行っていた。小説はこの時点での挿話を出発点にして始まっている。
父親が東京に残していったのは、稲子のほかに稲子の祖母と叔母、それに稲子の弟の4人家族だった。稲子の母親は弟を生んでから間もなく亡くなっていたが、その代わりに未婚の叔母が家に同居して四人家族になっていたのだ。叔母は頭が少し弱かったので、結婚することが出来ず、実家に扶養されていたのである。父親は意志の弱い道楽者だったから、稲子は小学校すら卒業させてもらえなかった。小学校を中退させられ、女中に出されたり、賃仕事に出されたりしていたのだ。
出稼ぎに行っていた稲子の父親は、またもや、家長としての義務を放棄し、全く送金してこなかった。それで、15歳になっていた稲子は、祖母と叔母の三人で手内職をして飢えを凌がねばならなかった。一つ仕上げても、いくらにもならない内職仕事は、夕食後にも、暗い電灯の下で延々と続いた。
ある日、耐えきれなくなった稲子は、思わず、「何か甘いものが食べたいな」と口にしてしまった。だが、祖母は取り合わない。そこで、稲子が、「おばあさんはいいよ、いままで贅沢なことをしてきたんだから」と言いつのると、突然、祖母は、ひいっといって泣き伏した。
「孫にまでこんなことを言われて・・・・」
稲子も驚いて叔母と共に祖母の肩に手をやると、異様な臭いがする。むせび泣きながら祖母は、脱糞していたのだった。
こんなことがあってから、稲子は父の出稼ぎ先の相生に行って、父と同居することになった。相生には、M(三菱?)の造船工場が出来てから大量の従業員が集まり、深刻な住宅不足になっていた。大抵の民家は、空き部屋を従業員に貸していたが、父が下宿している魚屋も、二階の三部屋を造船工場に通う職人たちに貸していて、父の部屋の隣には襖一枚を隔てて数人の職人が雑居していた。
狭い父の部屋には、備品のたぐいは何もなかった。一組の布団があるだけで、その同じ布団に親娘が一緒に寝るのである。
小津安二郎監督の映画に、父親役の笠智衆が娘役の原節子と旅館の部屋に泊まる場面があった。この場面が欧米で問題になったのは、二人が同じ部屋に泊まったからだった。欧米では、近親相姦を疑われるこのようなことは避けるのが通例になっていて、父娘でも寝るときには部屋を別にするのだ。
ところが、佐多稲子は父親と同じ布団にずっと寝ていただけでなく、この部屋に父の友達が泊まることになったりすると三人が同じ布団で寝ることになるのだ。
参考のために、そのときの様子を原作から引用してみよう。
稲子が寝ているところに、酒を飲みに外出していた父と川瀬という男が帰ってきたところから。
<「これア、困ったな」
という声で目が覚めた。
父と川瀬が部屋に立っていた。川瀬の蒲団が駅から届かず、蒲団を借りるにも.階下の人たちももう眠っている、と言うのである。
「仕様がない。一緒に寝るか」
と、父が言っている。勿論二人とも酔っていた。さあ、ことだ、と思って私は起きた。
「やア、どうも、嬢ちゃん、すまんですな」
父は酒に酔って、小鼻を余計にふくらませ、少し厭らしい顔をしていた。川瀬はますます蒼い顔をしている。もう大分更けているらしい。隣りの部屋では男たちの寝息がしている。私は肩をすぼめ妙に身体の震えてくるのを縮めながら冷めたい畳に坐った。
「いいよ、いいよ。寝とんなさい」
父は、まだ楽しい気分が川瀬との間につながっているらしく、
「みんなここへ這入って寝ようや、互いちがいに這入りゃ、這入れるだろう」
「仕様がないなア」
自分へのように川瀬は言って、
「じゃア、そうするか」
私は今までどおり父と枕を並べた。足の方から、川瀬が身体を差入れるというのである。私は足を締めていた。自分の足の汚れを川瀬に見られたらどうしよう、と思った。そして川瀬は、私とひとつ床に寝ることを、何と思うだろうか。
私は勿論ただ心理的にだけ慌てたのに過ぎない。川瀬は、私と同じ寝床に寝たこの夜のことを、どう彼の心にとどめるだろうか、と何か綾なす空想だけを心に描いた。そのくせ川瀬の肉体からは、肉体的な感じのひとつだって感じはしなかったように思う。ただ川瀬の身体がひとつ蒲団の中にあるという事実だけなのであった。その証拠に私は間もなく寝入ってしまっていたから(「裸足の娘」)>
欧米の人間だけでなく、現代の日本人にとっても、びっくりするようなことが、昔は平然と行われていたのである。
(つづく)