佐多稲子の「裸足の娘」(3)
「裸足の娘」を含む佐多稲子の作品を読んで感じるのは、稲子が正直な女だったということだ。告白する作家、自伝を書く作家は数多くいるけれども、自身の内面をあるがままに表現する作家はほとんどいない。作家は、読者の脳裏に自分に関する好ましいイメージを焼き付けようとして、表現にさまざまな工夫をこらすからだ。
ところが稲子は、自伝的な作品を書くに当たって、そのような操作を一切加えていない。夫に手ひどく裏切られた稲子は、友人に夫とは離婚するつもりだと固い決意を語ったりする。その癖、別れ話のさなかに夫に抱かれると、その決意は崩れ、相手を易々と許してしまう。稲子は、そうした情けない自分を、包み隠すことなく作品に書き込むのだ。
「裸足の娘」にも、ひとに自分を見せたくて、用もないのに下手な化粧をして街に出て行く自身を描いている。この作品を読めば、娘心の隠微な起伏が手に取るように分かるのである。
川瀬は、稲子にとって最初の男だった。彼女は川瀬に対する自分の感情が、どのように移り変わっていったかということをも、正直に書くのだ。
彼女は誰もいない山の中で突然、川瀬に犯された。性について何も知らなかった稲子は、豹変した川瀬が恐ろしかった。それで、相手に逆らうことができないまま、されるままになっていたのだった。そのときの記憶があって、彼女はこれまで川瀬に対して心を頑なに閉じていた。
だが、雨に降り込められて、川瀬の家で彼と二人だけになると、思いもよらない感情がわいてきた。秘密を共有している男と二人だけになるという偶発的な状況が、「機会の陥穽」とでも表現するしかない特殊な心理状態に稲子を追い込んで、また、川瀬にあの時と同じことをされるのではないかと予感させた。すると、その予想は彼女を恐怖させるどころか、あろうことか、ひそかな情事への期待へと彼女を導いて行ったのだ。
稲子は、今の危険な状況をもっと深入りさせたいと思った。あの時は、未だ自分は幼くて体を硬直させているだけだったが、今はもう女として成熟してきている。そういう自分を川瀬に見せつけてやりたかった。
川瀬が行動に移ったところへ、川瀬の妻が帰ってくるかも知れないという危惧の念が心をよぎったが、そうなったらそうなったときだと、稲子は居直る気持ちになっていた。彼女は、そんな気持ちを全部、川瀬の前にさらけ出している自分に気づいた。自分の気持ちを川瀬に読み取られている・・・・。稲子は、ごくっ、と唾をのみ込んだ。彼女の足の平は、興奮と期待でじっとりと汗ばみはじめていた。
しかし川瀬の行動は、彼女の予想を裏切るものだった。
<彼は布団の中から顔を差し出して、
「雨はやみそうにないね。傘を持ってゆきなさい。裏の縁側の戸棚に入っている筈だから」
はっ、と私は立ち上っていた。まだ川瀬の言葉が終らぬうちに。はっ、というのは気持のことではなくて動作のことである。私は機械人形のように立ち上っていた。そして川瀬に指さされるままに縁側の戸棚を開けていた(「裸足の娘」>
稲子は、バネ人形のように素早く立ち上がって、傘を手にして、、川瀬の家を飛び出した。
<私は半びらきにした蛇の目傘に顔をかくして、うつむいて歩いた。人力車が幌をおろして駈けていった。
町を出外れ、入江の片側道にかかって、初めて私は、たまらない羞恥を感じ出した。私は傘の中で顔をほてらせた。
川瀬は私の姿体に溢れさせた感情を全部感じとったにちがいない。今頃は何とおもっているだろう。川瀬は私を避けたのだ、ということは明らかに分った。
── 川瀬は、やっぱりいい人なのだ ──
と、私はふと思うのだった。私は初めて、川瀬を許すような気時になっていた(「裸足の娘」)>
「川瀬は、やっぱりいい人なのだ」という一行の中に、佐多稲子の人柄が如実に現れている。
私は、稲子が亡くなったあとで、その死を悼む多くの追悼の言葉を新聞で読み、彼女が人々からいかに深く愛されていたかを知った。彼女は、作家としては宮本百合子や平林たい子に劣るかも知れなかった。だが、人間全体として、持って生まれた人柄としては、彼女は女流プロレタリア文壇のなかで、図抜けた存在だったのだ。
稲子は、正直な女性だったから、二度の結婚に失敗したときには、その都度自殺を企てている。戦争中は、従軍作家として軍に協力した。稲子は、そのことを深く恥じた。彼女は間違いを犯したとき、その過ちを自分の前にも他人の前でもハッキリと認めて、その上で再起している。稲子は、人を憎むことがあっても、相手の良さが分かれば、その感情を切り替えることが出来た。だから、彼女は多くの人々から敬愛されたのだ。
──佐多稲子は、相生での生活を二年で切り上げて東京に戻っている。稲子の父が再婚して年若い妻を相生に迎えたことを知った祖母が、東京の家族への送金がないことに腹を立て、自分たち家族も相生に引っ越すと言ってきたからだった。
それで稲子は父の意を受けて東京に戻り、東京で就職して祖母たちの生活を支えることになった。稲子は書店の丸善に就職した。書店での仕事ぶりに感心した書店役員の斡旋で、稲子は資産家に嫁入りすることになり、物語は次のステージに移るのである。