甘口辛口

あの世で父を殴りたい

2012/7/7(土) 午後 1:11
あの世で父を殴りたい

「あの世で父を殴りたい」とは、不謹慎な発言である。これは、今日の朝日新聞土曜版に掲載されている「身の上相談」欄にある題名で、相談者は90才を超えた老女なのだ。私はこれを読んで、大いに笑ったのだが、本当は笑った私の方が不謹慎だったかもしれない。

問題の箇所を引用してみよう。

「私は90歳あまりですが、主人もまだ元気です。この世もしばらく続くと思いますが、あの世でもし父と会えるなら、大げんかがしたいのです。横面を張り倒し蹴っ飛ばしてやりたい」

彼女をこれほど憤慨させた父親は、生前、美しい長女ばかりを可愛がって、筆者をけなし続けていた。たとえば、筆者の顔が豆粒ほど小さく写っている修学旅行の集団写真を見て、父はこう評したのだ。

「鼻の低いのが分からなくて、よかったね」

筆者を最も憤慨させたのは、離婚したいと相談するために実家に帰ったら、こんな言葉を浴びせかけられたからだった。

「お前は、たった一人の男の機嫌も取りきれないのか。遊郭の女郎は、一晩5人も10人も手玉にとっているんだぞ。お前は、女郎以下だ」

親からは、結婚するとき、「死んでもこの家の敷居をまたぐことは許さん」と宣告されていた彼女は、離婚を諦めて夫のもとに帰るしかなかった。

そのくせ親たちは、病気をしたとき、ケガをしたとき、もう二度と実家の敷居をまたぐことはならんといっていた筆者に、平気で手伝いを頼んでくるのである。彼女は、あれを思い、これを思うと、今でも悔しくて夜もねむれなくなるのだ。

老女は、次のような質問をして、この興味深い相談を終えている。

「もし死んで父にあったなら、大げんかしたいという思いだけは持っています。一回たたき返したい。男だから力では負けるけれど、蹴っとばしてやりたい。こんな感情おかしいでしょうか」

以上の相談を持ちかけられた経済学者の金子勝は、モンテ・クリスト伯が最後には復讐することをやめて、自分を苦しめた人々を許したように、アレクサンドル・デュマの、「待て、しかして希望せよ」という言葉を引いて、父と和解することを勧める。そして、相談者がもう少したてば、今は亡き両親を許す心境になるだろうと考えて、「もっと、長生きしてください」と付け加えている。

相談者の文章によると、彼女の6人のきょうだいは、すべて死去し、生き残っているのは相談者一人だけだという。そのため彼女は、毎年のように今年は誰の何回忌と数えながら、法事を一人で取り行っている。この老女は、親きょうだいのすべてを失い、残された唯一の存命者として、ひたすら追想の日々を送っているのである。

誰でも、過去を振り返れば、悔しさ悲しさなどのマイナスの記憶を多く持っている。万人が「振り向けば鬼千匹」という想いを抱きながら生きているのだ。幸福になる為には、それらの記憶を活性化させてはならない、という某氏の与える教訓を、朝日新聞紙上で最近読んだばかりである。

「感じる人間にとって、人生は悲劇だが、考える人間にとって人生は喜劇だ」という言葉がある。マイナスの記憶と思われたものも、角度を変えれば悲劇にも喜劇にもなりうるのである。私は、この相談記事を読んで大いに笑ったのだが、相談者もまたこの文章を書きながら大いに笑うことが出来たはずだったのだ。

では、悲劇と思われた思い出を喜劇に転換するには、どうしたらいいのだろうか。次回に、その点について考えてみたいと思う。