甘口辛口

「ソラリスの陽のもとに」から「ハーモニー」へ(1)

2012/7/23(月) 午後 8:28
「ソラリスの陽のもとに」から、「ハーモニー」へ

現役のころは、翻訳物のミステリーを読む気がしなかった。だが、退職して暇な時間が出来たので、試しにその種の文庫本を読んでみると、一昔前の作品よりも格段に作品のレベルが上がっていた。外国には、松本清張に匹敵する書き手がいくらでもいるのであった。

特に、スエーデンやノルウェーなど北欧諸国には、すぐれた作家が多かった。以前の「探偵小説」の主役は、密室殺人の謎を見破る名探偵だったが、およそこれくらいつまらぬ作品はなかった。北欧諸国の作家たちは、そんなマニアックな作品からは、とっくに足を洗って、人間探求的、社会派的な深みのある作品を書くようになっていたのである。

SF作品も、同じだった。

アメリカで隆盛を極めているSFの主役は、エイリアンやアンドロイドで、それらの作品のおきまりの筋立てといえば、彼らが地球侵略を狙って攻撃を仕掛けてくるというものだった。そのどれもが、対戦ゲームの好きな中学生男子を読者に想定したような作品ばかりなのである。

ところが、北欧のSFには、それよりずっと高級な成人の鑑賞に堪える作品が多く、なかには純文学作品を凌駕するような哲学的な作品まであるのだ。私は偶然、古本屋で見つけた、「ソラリスの陽のもとで」を読んで、SFもここまで来ているのかと、ショックを受けたのだった。

地球以外の惑星に存在する生命体を、宇宙人と呼び、人間やトカゲが奇形化したような妖怪生物としてイメージするのは想像力が貧困だからだ。そもそも彼らが地球に興味を持ち、地球を征服しようとしたり、地球人と知的な交流を欲していると考えたりするのは、人間中心主義者の思い上がった錯覚なのである。

ポーランド人作家のスタニスラフ・レムは、惑星ソラリスを覆い包み込んでいる海を生命体として描いている。この海は知的活動を活発に行っていて、内部で役割を分担し、一種の数学的言語を用いて相互に対話している。だからこの海は、人間でいえば脳に相当し、惑星は脳を載せている頭蓋骨ということになる。

惑星ソラリスは、複雑な軌道を描いて赤と青の二つの太陽のまわりを周回しているが、惑星がこの周回軌道をとっているのも、宙に浮かぶ巨大な頭脳であるソラリスが決定したものなのだ。

人類は、ソラリスの海を観察するために、その上空に「観察ステーション」を浮かばせて常時観察を続けている。そして、海を調査し、海と会話するためにさまざまな機器を送り込んで来たが、海は、まるで人間との交流を拒むかのように、それらの機器と接触することを避けて、後退してしまうのだ。

苛立った乗組員が、強力なX線を4日間海に向けて照射したら、「観察ステーション」に常駐する三人の研究員に訳の分からない異変が起きはじめる。そのことを知った地球上の本部では、実情を調査するために心理学者のクリス・ケルビンをステーションに派遣することになる──物語は、ここからはじまるのである。

クリスがステーションに着いてみると、研究主任の姿は見えず、残りの二人の研究員も彼に対して変によそよそしい態度を見せる。主任はどうやら自殺したらしいと分かったので、クリスが更にあちこち調べていると、廊下で巨大な体をした黒人女とすれ違う。このステーションには存在するはずのない正体不明の女がいる──クリスが不気味に思っているうち、彼の部屋に、恋人のケリーが出現するのだ。

クリスの前に出現した女は、ケリーと姿・形はそのままだったが、ケリーが姿を現すはずはなかった。彼女はクリスの冷たさを恨んで、何年か前に自殺しているからだった。やがて、クリスは女が食事もしないし、睡眠も必要としないこと、そして鋼鉄製のドアを押し破るほどの怪力の持ち主であることを知るようになる。

彼女は、ソラリスの海によって送り込まれたケリーの模造品だったのである。海は何らかの方法でクリスの心の最深部にひそむ罪の意識を探りだし、彼を脅かすために彼の意識内に残っているケリーのイメージそのままのアンドロイドを作り出したのだ。

ステーションの研究員が、精神に異常をきたしたのも、彼らの罪の意識を掻き立てるようなアンドロイドを身近に送り込まれたためだった。ステーションの主任が自殺したのも、罪悪感に耐えきれなくなったからに違いなかった。

クリスは、思い切った行動に出る。ケリーの模造品を騙してロケットに押し込み、宇宙の彼方に向けて遺棄したのだ。が、気がついてみると、室内には新しいケリーが忽然と現れていて、すがりつくようにクリスを見つめているのだった。

この辺から、物語は意外な展開を見せ始める。人間とアンドロイドの恋が始まるのである。新しいケリーは、クリスと生活を共にしているうちに人間的な感情を備えるようになり、クリスを愛し始め、と同時に、彼女は自分が何者か疑うようになったのだ。

アンドロイドは、真剣な表情で、クリスに問いかけるようになった。

「私は、自分がどうしてここにいるのか分からないの。もしかすると、あなたならご存知かもしれないわね」

クリスが当惑して答えられないでいると、アンドロイドは優しくささやくのだ

「あなたには何の罪もないわ。わたしは知っているの。苦しまないで」

(つづく)