井上ひさしの戦術(3)
井上ひさしの生活が一変したのは、母親のマスがひさしをカトリック系の養護施設「ラ・サール・ホーム」に預けたからだった。何故そんなことをしたかと言えば、マスと長男が始めた土建業は、その仕事の性格上、転々と各地を移動しなければならなかった為だ。これに加えて、ひさしは、用もないのに井上組の飯場に出かけ、労働者たちの馬鹿話を聞くのを好んでいたので、マスは彼を手元に置いておくのは教育上悪いと感じて、ひさしを「ラ・サール・ホーム」に預けることにしたのだった。
マスが神父に頼み込んで、定員いっぱいになっている施設に彼を押し込んだとき、ひさしは中学三年生になっていた。「ラ・サール・ホーム」での生活は、最初は地獄のようだった。ひさしには、「四十一番の少年」という自伝的な作品があり、これを読めば当時の生活を知ることが出来る。
四十一番というのは、ひさしに与えられた「洗濯番号」で、洗濯に出す衣類にはこの番号を記入することになっていた。この番号は少年たちが施設に収容された順に与えられているので、番号が若いほど先輩面して威張ることが出来るのである。
ひさしに与えられた部屋は、木工場の一画をベニヤ板で仕切ったもので、その部屋には洗濯番号十五番の松尾昌吉という少年が入っていて、ひさしを待ちかまえていた。
<ドアを開けてくれたのは、背の高い細面の少年で、眼が剃刀ですっと切ったように細かった。少年はその細い目でちらりと利雄(ひさし)を見た。針のように鋭い視線だった。この一瞥で利雄はすっかり気押されてしまい、針(ピン)を刺された蝶のような気分になった。
・・・・施設に無理やり割り込んできたことを昌吉に責められた利雄は懸命に言い訳をする。「母が病気なんです。結核です。母は今朝、療養所へ入りました。そして、ぼくはここへ来たんです」
・・・・昌吉の立ちあがるのが見えた。それから利雄は、耳許でぴしっという音を聞いた。すぐ、左頬に鋭い痛みが襲ってきた。昌吉の身のこなしがあまりにも素早すぎ、利雄にはそれとはっきりわからぬうちに、平手打を喰っていたのだ。
「おれは孤児だ。孤児の前で、母、母というな」
利雄はこのとき以後、何百回となく昌吉の平手打を喰ったが、これがその皮切り、最初のひとうちだった>
この小説を読んで暗澹たる気分になるのは、ひさしが昌吉の度重なる暴力に屈して、昌吉の機嫌を取り始めるからだった。ひさしは肉嫌いを装い、自分の肉皿を昌吉の方へそっと押しやるようになった。
<それからの利雄は昌吉に飼われた犬のようになった。叩かれながら鼻を鳴らして慕い寄り、蹴られながら昌吉の手を舐め、殴られながら尻尾を振った。やがて、利雄は昌吉の声のわずかな変化や、表情のかすかな変りようを誰よりも早く読み取り、できるだけ少ない被害で昌吉の掌をかわして行く術を体得して行った>
ひさしは、「ラ・サール・ホーム」に入所中に昌吉の機嫌を取り結ぶ方法を覚え、それから仲間と相談して、ホームに慰問に来る母親たちを籠絡する方法を考え出している。戦争が終わってから食料の調達に苦労している母親たちは、ホームの子供たちが進駐軍からのお下がりのパンや肉を食べているのを見てショックを受ける。その彼女らを、このまま、自宅に帰してはならなかった。
そこで、まず、母親たちの注意を惹きつける役を一人決めて陽気に騒がせておき、慰問団が帰りそうになったときに、別の一人が駆けていって、その子供に、「お前の母さんが自動車事故に遭ったぞ」と告げる。
すると、今まで陽気に騒いでいた子供が、わーっと泣き出してその場にひっくり返る。それを見てお母さん方は、「やっぱり親がいるってことが、子供たちには必要なんだわ」と満足して帰るのである。その後で、ホームの子供たちは、「ほんとに苦労するな、お母さん方を慰めるのは」と語り合うのだ。
早くから他人の中で苦労していると、子供たちは自分を卑小化し、滑稽化して、人々の機嫌を取り結ぶようになる。自分をバカと見せかけて、それを信じ込む相手をハラの中でバカにするという高等戦術を身につけるのだ。
井上ひさしは、「スパイの子」といじめられていた頃に、相手に先んじて母親の悪口を言うことによって、いじめを避けていた。収容所でも、自分を卑小化し、自虐的な態度を徹底することによって、昌吉や慰問に来るお母さんたちをたぶらかしている。こうした日々を送ることで、ひさしは負けることによって、内面的な優位を保ち続けるという生活手法を体得して行ったのである。
この生活手法を社会的・国家的な規模まで拡大すると、どういうことになるだろうか。
<世の中は巧妙にして複雑であるから、いつの間にかある権威がしかつめらしく大真面目に、・・・・わたしたちの生活にまでその爪を伸ばし、こっちの自由を押えつけにかかるときがある。このとき、喜劇の手法が非合理の権威や不合理な神のばからしさを、その正体をあばくのである(「パロディー志願」)>
タブーの多いこの国に生きるものは、「非合理の権威」や「不合理の神」が何を指しているか、直ぐに分かる。天皇制を暗示しているのだ。
ホームで受験勉強に精出したやすしは、東北地方で有数の難関校である仙台一高に合格して、この高校で3年間を過ごしている。ひさしは、中学・高校の3年半を「ラ・サール・ホーム」で外国人修道士らと寝食を共にして、彼らに深い尊敬の念を払うようになった。ひさしは、語っている。
<いっしょに暮している友だちの多くは戦争で両親を失っていたが、彼らの親戚はむろんのこと、天皇も国家も、なにもしてくれない。それなのに先生方のこのやさしさは何だろう。
なにが先生方のこのやさしさをつくりだしているのだろう。そう思ううちに、「この先生方の信じているものなら、それが何であれ、自分もそれを信じよう」と考えるようになった。
・・・・わたしが信じたのは、遥かな東方の異郷へやって来て、孤児たちの夕餉をすこしでも豊かにしよぅと、荒地を耕し人糞を撒き、手を汚し爪の先に土と埃(ほこり)をこびりつかせ、野菜を作る外国の師父たちであり、母国の修道会本部から修道服を新調するようにと送られてくる羅紗の布地を、孤児たちのための学生服に流用し、依然として自分たちは、手垢と脂汗と摩擦でてかてかに光り、継ぎの当たった修道服で通した修道士たちだった。
わたしは天主の存在を信ずる師父たちを信じたのであり、キリストを信ずる檻衣の修道士たちを信じ、キリストの新米兵士になったのだ>
仙台一高を卒業した彼は、上智大学に進み、代々木上原の「ラサール会修道院」から大学に通うようになった。
(つづく)