井上ひさしの戦術(4)
井上ひさしは、仙台一高を卒業して上智大学に入学したものの、大学を卒業するまでの数年間を屈折の多い生活をしている。彼は上智大のドイツ文学科に入学したが、直ぐに退学して、国立釜石療養所の事務員になって3年間を過ごすかと思うと、上智大フランス文学科に復学し、東京浅草の「フランス座」の文芸部員になって大衆演劇のための脚本を書いたりしている。
思想の面でも動揺があった。ひさしは、カトリック教に入信して、「キリストの新米兵士」になることを誓っておきながら、上京後に棄教している。ひさしは大都会の聖職者たちに失望して白けた気分になり、ついにはカトリック教団からの脱走兵になってしまったのだ。
彼が「マリア・ヨゼフ」という洗礼名まで貰いながら棄教したのは、東京で暮らす聖職者たちの暮らしぶりを見たからだった。豪華な衣装に身を包んだ聖職者たちは、魔術師のように天主の存在を証明する公理を立ちどころに十も二十もひねりだし、気味の悪いほど白く清潔な手で信者らに洗礼を施していた。東北地方の養護ホームで孤児たちに食べさせるために荒れ地を耕して畑にし、人糞を撒いて肥料にしていた修道士たちとは、全く別の人種に見えた。
浅草で大衆演劇の為の脚本を書いているうちに、ひさしはNHKからテレビ用の台本を書くことを頼まれる。そうこうするうちに、彼は、ほとんどNHK専属の放送作家になり、「ひょっこりひょうたん島」などの台本を書くことになるのである。
「赤い一家」の一員として白眼視され、「スパイの子」としていじめられてきたひさしは、テレビに寄生して生きるようになった自分を何とか正当化しなければならなかった.他人に対してではなく、自分自身に対して正当化する必要に迫られたのだ。当時、テレビは「一億総白痴化」の元凶として、世の識者から非難されていたからだ。
彼は自問自答して、こう語っている。
<テレビは愚劣で馬鹿げたものだから、人間の見世物として成り立っているのだ。見るに価しないぐらい阿呆くさいものだから、見るに価するのだ・・・・愚かで阿呆らしく馬鹿げたものであるからこそ、「リア王」のなかの道化師の如く、どんな辛辣な真実をも述べうる、という資格を獲得できるのだ>
彼は、自分を物書きとしては格下の放送作家と自認しながら、だからこそ為政者たちの非違を痛烈にあばく立場に立つことができるという。自分を卑下することによって、誰よりも高く飛翔し得るというひさし得意の持論を、ここでも実践することになったのだ。
事実、「ひょっこりひょうたん島」は、子供向けに書かれた作品だったにもかかわらず、大人の鑑賞にも耐えうる秀作として高い評価を受けるようになった。作者は、威張る奴らの足元をすくって笑いものにし、人間社会は賢愚美醜いろいろな人間が混じり合っているからこそ楽しいのだと強調する。私は、この番組をたまにしか見たことがなかったけれども、今になって思い返してみると、「ひょっこりひょうたん島」には、アナーキズムの世界の楽しさ、豊かさが描かれていたように思う。
放送作家として成功した井上ひさしは、舞台で上演される本来の戯曲にも手を染めるようになり、この面でも成功して、劇作家として頂点を極めている。彼の躍進はつづき、小説を書き始めると、直木賞を受賞して、たちまちベストセラー作家の一人になった。
しかし、井上ひさしが50才になり、「こまつ座」を立ち上げる頃から、順風満帆だった彼の人生に暗い影がさしはじめる。ひさしと結婚した内山好子は、夫が人に会うと、まず頭を下げてあやまってしまうことに驚いてひさしを責めている。
「わけもなく頭を下げるなんて卑屈じゃない?」
すると、ひさしはいうのである、人に接する時にこうすれば、相手の戦意を喪失させ、敵を作らないで済むのだ、と。
「そう簡単に男が頭を下げていいの。一緒にいると、わたしまでなんだか悪いことをしたような気がしてくる」
「頭を下げて相手のふところにとびこめば、向こうはこいつは敵じゃない、と思って、こころを開いてくれるんだ」
子供の頃から苦労してきた井上ひさしは、他人と友好関係を維持して行くために低姿勢をとり続けた。彼が日本劇作家協会の会長に推されたり、日本ペンクラブの副会長に就任したのも、この誰に対してもみせる友好的な態度のためだった。権力に対して手強く戦い、隣人に対しては協調的な態度を取るというのが彼のポリシーだった。だが、この戦術を貫くことが次第に困難になって行くのである。
ひさしが売れっ子作家になってからは、各出版社から彼に原稿を依頼する電話が引きも切らないようになった。ひさしがその電話を取ると、彼は必ずといっていいほど執筆を引き受けてしまう。誰とも友好関係を維持しようとしているひさしは、依頼を断ることが出来ないのである。
妻の好子は、遅筆の夫が執筆を引き受けることの無謀を知っていたから、ひさしが引き受けた後で断りの電話を入れていたが、それでも彼は依然として原稿を締め切りまでに間に合わせることが出来なかった。編集者らは、こういう時の慣例に従って、ひさしをホテルに泊まらせて缶詰状態いたにして、その状況の中で原稿を書かせることにした。が、彼を缶詰にしたがる編集者が増えてくると、調整がつかなくなって、編集者たちはひさしの家に泊まり込んで、原稿の仕上がりを待つようになった。
約束の原稿を書き終えることが出来なかったために、1983年には彼は世間を騒がすような事件を引き起こしている。
ひさしは、ある劇団が渋谷の西武劇場で公演する芝居の台本を書くことを請けおって執筆に着手したが、約束の期限までに書き上げることが出来なかった。そのため、この公演は直前になって中止を公表しなければならなくなった。このために、劇団や西武劇場が受けた損害は甚大で、結局ひさしはこれを補償するために2400万円を支払うことになる。30年前の2400円といえば、現在の5000万円を越える金額に相当する。
こういう失敗をしながら、彼は執筆の安請負をして、各方面に迷惑をかけ続けたから、編集者らは何人も彼の自宅に泊まり込むことになったのである。妻好子は、編集者にいわれて原稿の催促をする。すると、疳をたかぶらせたひさしは、妻を殴り、いやいや机に向かう。
やがて、編集者たちは、どうしても原稿がほしくなると、「奥さん、また、2,3発殴られて下さいよ」と頼むようになった。
(つづく)