求道者のタイプ(2)
現役の頃は、日曜日の過ごし方が決まっていた。
昼食後、NHKの教育テレビにチャンネルを合わせて、「NHK杯囲碁トーナメント」を見る、そのあとで、これに続く「心の時代」という宗教番組を見て午後の数時間を過ごしていたのである。私は囲碁についてはルールを知っている程度の知識しかなく、誰かを相手にして対局したことなど一度もなかったし、宗教についても無神論者で、いかなる宗教をも信じていなかった。それが、日曜日の午後を、囲碁と宗教にどっぷりと漬かって過ごしていたのである。
退職後は、昼間、バイクであちこちを探索することが増えた。そのため、テレビ囲碁・宗教番組を録画しておいて、夜に、再生して見ることが多くなる。だが、それも今では間遠になり、もはや、囲碁番組を録画することはなくなったし、宗教番組も、新聞のテレビ番組欄を見て、関心のあるものだけを録画するようになっている。
ところが、数日前に録画済みの宗教番組の一つを再生してみたら、これが珍しく面白かったのである。題名は、「禅僧──結果自然成」となっていて、二年前に制作された番組を、今年になって改めて再放送したものだった。番組が取り上げているのは、横浜の善光寺で「日曜座禅会」を開いている藤田一照という人物で、東京大学大学院博士課程で発達心理学を研究していたが、一転して大学院をやめて禅僧になったという異色の経歴の持ち主だった。
藤田が自ら語るところによれば、彼は子供の頃から高い目標をかかげ、これに向かって努力して目標を達成することを得意としていたという。成る程、それで東大に合格し、博士課程まで進んだのだな。
その彼が10才の頃、自転車で夜道を走っていて、満天に輝く無数の星を見上げて頭を殴られたような気持ちになるのだ。無限大の宇宙と、それを見上げているあまりにも微小な自分との対比が、頭をくらくらさせるほど衝撃的だったのである。
高校に進むと、宇宙に向けられていた関心が、自分に向けられるようになる。彼は自己の内面に沈潜して、生命の本体を把握するために努力しはじめる。それで、彼は、東大に進んでから精神探求系のさまざまの学派を研究するだけでなく、知名の精神的指導者を歴訪して教えを受けているうちに、ある漢方医から「私の言うことを理解するには、禅の修行を積んで来る必要がある」と言われる。
そういわれて、大学院を止めて彼が飛び込んだのは、兵庫県の安泰時だった。安泰寺は、自給自足の生活を送りながら座禅修行を行う寺で、一般人のほかに外国からの入門者も多い寺院だった(この寺については、小生のホームページ「迷える外人の禅修行」https://amidado.jpn.org/kaze/home/zen.htmlに紹介してある)。
藤田は、この安泰寺で黙々と労働と求道の日々を送るうちに、いつの間にか33才になっていた。その彼をアメリカにある禅堂の指導者に迎えたいというという声が起こり、渡米した藤田は17年間をアメリカで過ごすことになる。日本にいたら「葬式仏教」で稼いだ金で、禅堂を支えることができるけれども、アメリカではそういうわけにもいかず、藤田は禅堂を維持するためにベビーシッターをしたり、便利屋をしたりしている。日本に帰国してからも、彼は寺を維持するために別荘の留守番を引き受け、外人の著した仏教書を翻訳するなどしている。
彼は、禅の指導者として、弟子たちをどのように導いているのだろうか・・・・フランクルのやりかたとは、全く異なる手法を用いているのである。
フランクルは、人生が自分に何を求めているか感じ取って、その求めに誠実に答えようとする。自らもストイックに生き、人々にも意志的に生きることを勧めたのである。
だが、藤田一照は、人それぞれの使命に基づいて生きることを勧めるどころか、そんな無用な考えを棄てて、毎日を天真に生きよと説く。禅僧は、悟りや見性を求めて座禅をするけれども、藤田は弟子たちに、ただ、無作為に座っていることだけを要求している。道元が教える「只管打座」を徹底して実行することを求めるのだ。
初めて座禅をする修行者たちは、何も考えずに、ただ座っているだけでいいと言われても、次々に湧いてくる雑念に苦しめられる。これに対して、藤田はそれらを押し殺そうとして苦労する代わりに、雑念を雑念として湧くままにして、それをそのままそこに置いておいて、黙ってそれを眺めていればいいと教える。
悟りを得ようとか、よりよく生きようとか考えるのは、心の滞り(とどこおり)であり、生きて行く上で邪魔になるだけなのである。それらに邪魔されずに、ただ座っていれば、今ここにあるという感覚だけが残る。そして、自分が全宇宙の力の働く場になっていること、自分は宇宙的生命の端末に他ならないことを実感するようになる。
今この瞬間にも、心臓は脈打ち、血液が体中をめぐり、胃が静かに食べたものを消化し続けている。宇宙の力が自分において働いているのである。
(つづく)