求道者のタイプ(3)
フランクル型の人間タイプを「ストイック型」とするなら、この型は欧米人に多いと思われるし、藤田一照型の人間タイプを「自然型」と呼ぶならば、この型は東洋人に多いように思われる。
欧米人は我が強く、自分の言い出したことを飽くまで押し通そうとするから、ストイックとは言えない、という反論があるかも知れない。だが、自分の信じていることを曲げないのは、一定の原理・原則によって自分を縛っているからではないだろうか。ストイシズムとは、自分本来の性情に縛りをかけ、個人の好みを越えた普遍的な行動原理を固守して生きることを意味する。
こうした意味でのストイック型日本人の典型は内村鑑三ではないかと考える。内村は子供の頃から自分に縛りをかける生き方をしていた。まわりの大人たちから、神社の前ではちゃんと頭を下げて拝礼しなければいけないと教えられた内村は、用事があって外出するときも、すべての神社や社に丁寧に礼拝しながら進んだので、なかなか目的地にたどり着けなかったという挿話を残している。
こういうタイプの人間は、自分の信じる生き方を純化して、より狭く、より深いものにする傾向がある。内村鑑三は、天皇署名の教育勅語を拝礼することを拒んだとして「内村鑑三不敬事件」なるものを引き起こしている。
彼が拝礼を拒んだ明治天皇署名の教育勅語は、私が学んだ東京の学校にも下賜されていて、私たちは、入学式の後で、この有り難い勅語を拝観することが許された。
私たちが勅語を安置した場所に列を作って行ってみたら、ガラスケースに納められた勅語の両脇を助教授二人が敬虔な表情で「護持」していた。一人ずつ、順番にガラスケースの前に立ったとき、冷笑癖のあった私は、仰々しい舞台装置を滑稽に思った。それで、勅語に頭を下げることもなく、薄笑いを顔に浮かべたまま天皇親筆の署名をのぞき込んだ。すると、勅語を守っていた助教授二人が、揃って咎めるように私を睨んだ。だが、秀才タイプの助教授が、こちらを表立って叱責することはないだろうと分かっていたから、私は平気だった。
こういう私の愚かしい挑発的行動に比べたら、内村の態度はちゃんと筋が通っていたのである。
内村は第一高等中学の嘱託教員だったとき、これと同じような状況下で教育勅語に頭を下げて敬礼をしている。しかし、それが最敬礼ではなかったという理由で、彼は世論の袋叩きにあったのである。彼は形式的に頭を下げる程度だったら、自分の行動を許すことが出来たが、イエス以外の存在に最敬礼まですることについては縛りがかかっていたのだ。
内村は日露戦争が始まれば「万朝報」紙に拠って反戦論を唱え、足尾銅山事件が起きると被害民側にたって銅山会社と闘い、最後まで権力に屈することがなかった。そして、キリスト教徒としても信仰を純化し単純化する方向に突き進み、「無教会主義」を唱えて既成の教会に反旗をひるがえすようになるのだ。彼は、やがて洗礼や聖餐などを批判することさえしはじめる。
これに対して、自然型の日本人として、頭に浮かんでくるのは、やはり良寛である。
良寛は、内村鑑三とは異なり、子供の頃から世事に縛られることを嫌っていた。彼は、母が盆踊に行くように家から送り出してやっても、何時の間にか家に戻って来て、石燈籠のあかりで論語を読んでいるというような少年だった。
その彼が名主の子として生まれたばかりに、十六才で名主見習役となり、代官と漁民との間の紛争の調停に当ったり、囚人の斬首刑に立合ったりする生活を強いられたのだから、現世から逃亡したくなるのも無理はなかった。十八才の年に遂に彼は近くの曹洞宗の寺院にかけ込んで出家してしまうのだ。
良寛は、禅僧としての本格的な修業を主として備中国玉島の円通寺で行っている。ここで彼は二十二才から三十三才までの十一年間を過しているけれども、その間、寺にこもってほとんど外出しなかったため、円通寺の門前千戸ばかりの住民のうち誰一人その顔を見知ることなく終わっている。
三十三才で印可を受けた彼は、円通寺を出てふっと姿を消し、流浪の生活に入る。
そして五年後、三十八才になって郷里の越後に戻ってくる。「徒労を重ねて今日ふる里へ戻って来た」と淡白な表情で語った良寛は、それ以後三十六年間、郷里で無為無策の後半生を送るのである。
帰郷後、最初の十年余は、空庵を求めて各地を転々とした。この時の心境は、「寓るところ便なれば即ち休す、何ぞ必しも丘山をたっとばん」という風なものであった。やがて国上山中腹の五合庵に定住するようになるが、それもここが気に入ったからというより、単にここに生活上の利便があったからに過ぎなかった。
自分の生活に縛りをかけた内村は、東京の角筈から柏木へと引っ越したが、ここを活動拠点と定めて動かなかった。彼はここに自身の考えに賛同する学生や信者を集め、共に祈り説教もしたのである。
縛られることを欲しなかった良寛は、規範というものをすべて棄て去り、一切の固定観念を排し、最低限の生を保つに必要な便宜を求めて各地を転々と移り動いた。良寛は、それがどんなものであれ、外部からの縛りを一切拒否し、自らを縛ることも止めて、出家後、情感の赴くままに生きたのである。
(つづく)