甘口辛口

不運な女(1)

2012/9/16(日) 午後 3:25
不運な女

昨日の朝日新聞土曜版に、「愛がない小説じゃダメ?」と題する「身の上相談」が載っていた。相談者は作家志望の女性で、相談文の書き出しは、「まもなく70歳になる独身女性。大学を出て公務員として半生を過ごしてきました」となっている。

前回に紹介した相談記事は、そのショッキングな書き出しに驚かされたが、今回の相談は淡々と書き出されている。変わっているところといえば、相談者の年齢が70才間近であること、そして、その年になって作家をめざして創作講座を受講していることだった。だが、相談内容を読んで行くと、次第に相談者に同情を感じ始めるのである。彼女が、割に合わない人生を送って来たからだった。彼女は自身の人生を振り返って、「自分は人の愛し方も愛され方も知らずに生きてきた」といっている。

そもそも、両親の夫婦仲が悪かったのである。母は美人で頭がよかったが、父とはカネで繋がっているだけだったし、その母が愛している子供といえば、自分に似た顔をしている姉だけだった。父親も男の子しか関心がなく、弟だけを可愛がっていた。両親のどちらからも無視されていた相談者は、子供の頃から病気やケガは自分で薬箱を探して治して来たのだった。

彼女は、大学を出て公務員になったけれども、周囲から能力を認められながら、出世できず、万年スタッフとして過ごしている。そして、弟も姉も家に寄りつかないため、退職後の彼女が一人で両親の介護をすることになった。その両親も2年前にあの世に旅立ち、相談者は一人残された。こうなって、やっと相談者は初めて時間を自分自身のために使うことが出来るようになったのである。彼女が残り少ない人生を充実させるために選んだのは、小説の創作講座を受講することだった。

彼女が作品の中で描こうとしたのは、肉親同士や世間に渦巻く憎悪や嫉妬であり、優しげな言葉の下に隠された悪意だった。これを読んだ受講仲間は、彼女の作品を全く評価してくれなかった。「母性愛を疑うなんて許せない」という言葉をはじめとするブーイングとバッシングを浴びた彼女は、身の上相談の回答者に、こういう質問を寄せることになるのである。

<愛を解さない私が小説を書こうとすることはいけないの?>

社会学者上野千鶴子の回答は、こうだった。

<両親に愛されなかったのに、姉と弟に代わって結局両親の介護をひとりで引き受けたあなた。いったいどんな思いで介護をなさったことでしょうね。ご苦労の数々や憤懣やるかたない思いが文面からあふれています>

回答者は、まず、こう言って質問者の心事を思いやってから、講座の仲間の埒もない批評を一蹴するのだ。

<へええ、この世の中の悪意や嫉妬、憎悪などを描くとバッシングを受けるなんて、創作講座じゃなくて道徳講座かと思いました。「母性愛を疑わない」なんて人は、小説家に向かないと思うんですがねえ>

それから、上野は声を大にして質問者を激励する。

<(あなたが苦労したこと、そして現在、憤懣やるかたない思いを抱えていることは、実は)あなたには書きたいことがやまのようにあるってこと! なんてラッキーなんでしょう。誰でも生涯に一作だけ作品を書くと言います。たいがいの人は、自分の人生を書いてしまうともうネタが尽きるものです。あなたは書きたいことが次々にあふれてタネが尽きないことでしょう。それに書くという行為は、なにがしか自分の人生にオトシマエをつけるためのもの。あなたの中で溜まりに溜まったマグマはとうぶん収まりそうもありませんから、創作欲が衰えることもないでしょう>

こう激励しておいて、上野は最後にこう助言する。

<ただし小説を書くには「感じたことをありのまま」書くだけではだめ。技術が要ります。そのための講座なんですから、習作をどんどん書いてスキルを磨いてください。文学賞にもどんどん応募しましょう。そのうち70代の新人賞作家が誕生するかもしれません>

上野千鶴子の回答は、これはこれでいいのだが、先般、芥川賞を受賞した鹿島田真希の「冥土めぐり」に比べると、やはり言葉足らずのところがある。上野の文章は、質問に対する回答という枠組みの中で書かれたものだから、当然、意を尽くさないところがあるのだが、鹿島田の方は焦点を、

「<理不尽>とか<不条理>というものは、不幸をもたらすばかりでなく、幸運ももたらすものだ」

という点にしぼって、思うところを存分に書き切っている。

「冥土めぐり」のヒロインは、質問者と同じような苦難を強いられ、割の合わない人生を歩んで来たが、マイナスがプラスに変わるという不可思議を体験している。次に、「冥土めぐり」のヒロインが体験した人生を眺めてみよう。

(つづく)