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不運な女(2)

2012/9/19(水) 午後 1:36
不運な女(2)

芥川賞受賞作「冥土めぐり」のヒロイン奈津子は、不運な女だった。何しろ、結婚したら、直ぐに夫が原因不明の脳の病気で倒れてしまったのだ。

<なんの前兆もなく、ある早朝に、(夫の太一が)獣のような叫び声を体のどこからか挙げて、体をこわばらせて、白目になり、泡を噴いて意識を失った。数秒、とても神聖な沈黙が訪れ、鳥の鳴き声だけが聞こえた。それは、別の人間が太一の肉体を乗っ取り、「お前はどんな男と一緒になっても幸せになれない。これでわかったか」と言っているように奈津子には見えたのだが、単なる脳神経の発作だった(「冥土めぐり」)>

夫は、病気になって入退院を繰り返すこと3年、そして病名がハッキリしてから5年が経過し、計8年間というもの病気と縁が切れなかった。これではまるで、病人を看病するために結婚したようなものだった。しかし、この8年間は奈津子の人生にとって、いくらかましの方だったのである。

奈津子が夫と知り合ったのは、区役所でパートの仕事をしているときだった。仕事というのは、不登校児の会報をひたすらホッチキスで留めて製本することで、区の職員だった夫の太一は、この会報を作り、その紙の束を奈津子に手渡しする役をしていたのである。

太一に求婚されたので、奈津子は彼を自宅に連れて行った。父親はすでに亡くなっていて、家には母と弟がいるだけだった。元スチュワーデスで器量自慢の母には、あらかじめ太一のことを伝えてあったが、彼女は訪ねてきた太一に水一杯も出さなかった。「あなたが奈津子の彼氏?」と疑うような目つきでじろじろ太一の顔を見ているだけだった。奈津子の弟は、もっとひどかった。大学を出て就職したものの長続きせず、家でぶらぶらしていた弟は、立ったままで腕組みをして、座っている太一を上から見下ろしていたのだ。

母親は父親が亡くなったときから、奈津子と結婚する男の経済力を当てにしていた。奈津子夫婦に依存して生きる積もりだった母と弟は、奈津子の婿になる男が区役所勤めの安月給取りだと知って、すっかり失望してしまったのである。

そこへもってきて太一が脳病で収入がなくなり、奈津子のパート代と太一の障害者年金で細々と暮らすことになったのだから、母と弟が怒り狂ったのも当然だった。

まずいことに、弟には借金があった。就職してクレジットカードを作った弟は有頂天になり、キャバクラ通いなどで借金を重ねて来ていた。母は借金返済のため、所有していたマンションを手放さなければならなくなり、弟と一緒に郊外に移り住むことになった。母親は、弟を叱る代わりに奈津子と太一を呼びつけて絶叫した。

「あんたの旦那のせいよ。あんたが、二束三文にもならない旦那を持たなければ、こんなことにならなかったんだからね」

弟は弟で、奈津子を呼び出して、説教するのである。

「おいお前、いつになったらあいつと離婚するんだよ。お前はなにもわかっていない。お前、ただ寂しいだけなんだよ。本当はあんな男、好きじゃないんだよ。だってそうだろう? 働きもしない、家でなにもしない。そんな男をどうして好きになれるっていうんだ。俺たちのためになにもしない男を、どういう理屈で好きになれるっていうんだ」

奈津子から見れば、母と弟は死んでいるのに成仏できないでいる亡者のような人間だった。奈津子はすっかりあきらめていた。なにもかもあきらめていたのだ。そして自分の身に起こる、理不尽や不公平、不幸について考えることをやめてしまった。彼女は、現実から目をそらして生きるようになったのである。

その奈津子が、夫をリゾートホテルに連れて行ってやろうと思い立ったのは、十日ほど前、太一が転んで頭を打ち、四針縫う怪我をして、風呂に入れなくなったからだった。疲労のため夫の世話を十分に見てやれなくなっていた奈津子は、せめてもの罪滅ぼしに太一を温泉に入れてやろうと考えたのだ。たまたま奈津子は、町内の掲示板を読んで、区が住民のために新しく事業を始めたことを知っていた。区民が温泉ホテルに安く泊まれるように、区が宿泊料を補助してくれることになったのだ。

そのリゾートホテルというのは、以前はセレブ向けの高級ホテルで、奈津子は子供の頃、母に連れられて泊まったことがあった。母にとって、そのホテルは一家が裕福だった頃の思い出の場所であり、ひかり輝く極楽世界だったのである。だが、奈津子にとって、そのホテルをおとずれることは、母の虚栄が生み出した冥界をたずねるようなものだった。その栄光のホテルも経営不振に陥って、今は区民のための保養施設に変わっている。

奈津子は、ホテルに着いてから、母のこと、夫のことをしみじみと考えた。

母親は、財産を失い、マンションを手放して、弟と一緒に郊外に移り住んでいる。母は都落ちだと噂されていることを知って、自殺未遂騒ぎを起こしていた。彼女は一週間入院した後、すぐに退院させられて近くの精神科に通うことになると、医師にすがりついて.嘘泣きや失語症の演技をして、精神障害者の認定を受け、年金生活を手に入れていた。奈津子は、その年金も弟の飲み代になってしまうだろうと思った。

母と違って、太一は人に好かれていた。障害者になってから特にそうなった。弟は、「あいつは、したたかで図々しい奴だ」と憎たらしそうに言っていたが、太一はどこかで転んでも、すぐ、まわりの人たちから助けられて、手厚い世話を受けている。奈津子は、太一ほどの不運に見舞われ、しかも淡々と生きている人間を見たことがなかった。

(つづく)