不運な女(3)
芥川賞を受賞した鹿島田真希は、「受賞のことば」のなかで、こう書いている。
「私は自分の作品の中で、人は理不尽な不幸な目に遭うと繰り返し書いてきたが、(今度、芥川賞を受賞して)人の一生というものは、本当に悪いことばかりではないんだなあ、と実感した。・・・・<理不尽>とか<不条理>というものは、不幸をもたらすばかりではなく、幸運ももたらすものだということをいい加減学習すべきだと自分にいいたい」
鹿島田真希は、生きているとマイナスがプラスに変わる不可思議な現象に逢うことがあるという。そして、その実例として自身の芥川賞受賞をあげるのだが、彼女は受賞作のなかでも、登場人物の人生がマイナスからプラスに転化するところを描いている。
太一は、四肢の自由を失って脳の中に電極を埋め込まれる手術を受けた不運な男である。けれども、また、同じ太一が幸運に恵まれてもいる。脳外科手術の順番に突然キャンセルが出て手術を受けられるようになったり、奈津子には目もくれない人たちが、太一に対しては、なぜか親切にしてくれたりするのだ。病院でもそうだった。奈津子が「夫は頑固で困るんです」と訴えても、医者は取り合わず、笑って太一の頚を撫でてやっている。医者は、太一にだけ親切で、奈津子を相手にする時は冷淡な顔になるのだった。
著者は、この物語をハッピーエンドで終わる一種の奇跡譚に仕立て上げている。奈津子には、裕福な一家のメンバーとして三代にわって重ねられた傲慢と浪費の血が流れていた。それを洗い流してくれたのが、ほかならぬ夫の太一だった。
奈津子は、自分自分を救うためには、妄執にとらわれている母・弟のもとから逃げ出す必要があったが、そのためのアイディアをなにも持ち合わせていなかった。そんな彼女を母・弟から引き離してくれたのが、太一との結婚だったのである。
太一の発作も、別の面から見れば彼に幸運をもたらしてくれている。太一は、すべてを受け入れるお人よしな男で、たとえ、奈津子の家族から搾取されていると知っても、区役所から得る収入の全てを母に与えてしまっただろう。そんな太一に脳性の発作が起きたから、彼は母・弟の犠牲になることを免れた。あの発作は、寸分の狂いもなく絶妙なタイミングで起きている。あれは、太一夫婦を救済するための発作だったのである。
リゾートホテルへの旅の最後に、太一が海を見たいといい出したので、奈津子は彼を海岸に連れて行った。二人は波打ち際に座って、海を眺めた。奈津子は、寄せては返す波に恐怖を覚えていたが、太一は平気らしかった。
海を眺めながら、奈津子は考える、なぜ夫は自身の理不尽な運命や、理由もなしに浴びせられる母と弟の悪意を我慢できるのだろうか。
彼は自分の幸と不幸を、波の動きのようなものとして見ているのではないか。太一にとっては、公平と不公平、幸福と不幸がこの世にあるのは当たり前のことなのだ。彼が何も考えずに生きていられるのは、自分の運命の一切を当たり前の現象,日常的な現象として眺めているからではないか。
すべてを受け入れることによって、太一の世界は拡がり、そこで生起する世事のすべてを平常心で眺めることが出来るようになったのだ。晴れた日には服を脱ぎ、雨の日には傘をさす、生きるとはそれだけのことに過ぎない・・・・。
奈津子は、太一を全く新しい視点から見るようになったのである。
<この人は特別な人なんだ。奈津子は太一を見て思った。今まで見ることのなかった、生まれて初めて見た特別な人間。だけどそれは不思議な特別さだった。奈津子はそんな太一の傍にいても、なんの嫉妬も覚えない。そして一方、特別な人間の妻であるという優越感も覚えない。ただとても大切なものを拾ったことだけはわかる。それは一時のあずかりものであり、時がくればかた返すものなのだ(「冥界めぐり」)>
奈津子と並んで海を見ていた太一は、やがて眠ってしまう。奈津子には、海を目の前に腹を出して眠る太一が、世界という理不尽の大海原を前に眠っているように見えた。母と弟の存在に脅えながらて生きていた奈津子は、身内から静かな勇気が湧いて来るのを感じた。砂漠の中を歩いていて、泉に出会ったような気持ちだった。奈津子は、冥界から抜け出ることに成功したのである。
「冥土めぐり」は、旅から帰った太一が電動車椅子で颯爽と外出するようになり、奈津子が母からの電話を平静に受け流すことが出来るようになったことを記して終わっている。この作品は、奈津子回生の物語なのだった。