甘口辛口

読書のための細い道(2)

2012/10/12(金) 午後 5:25
読書のための細い道(2)

前回に続き、「読書のための細い道」の(2)を書いていたら、宅急便のトラックがやってきて、ブルーレイ・ディスクを届けていった。これは、「加藤周一・幽霊と語る」という題名で、スタジオ・リブリが「学術ライブラリー」と銘打って発売しているディスクだ。

インターネットで、この広告を目にしたときには、「一層ディスク」で99分ものなのに6090円もするのは、ちょっと高価すぎるなと思った。だが、本でも何でも、興味を感じた時に、思い切って購入しておかないと、後になって後悔することを体験して来ている。それで、少々危ぶみながらこのディスクを注文しておいたのである。

早速、ディスクをDVDレコーダーにかけてみた。果たしてそれが、6090円の価値があるかどうか、確かめるためだった。普通、学術ライブラリーなどと銘打ったディスクだと、講演や対談だけを採録してあるのだが、さすがにスタジオ・リブリが制作しただけあって、これは加藤周一の語りの前後に、カットバック方式で関連した映像を挿入するなどの工夫をこらしている。

しかし、問題は、加藤周一がディスクの中で何を語っているかということだ。

加藤によると、生きている人間は時の経過とともに意見を変えるが、死んだものが意見を変えることはない。だから、彼は気心が知れている死んだ先輩や友人と対話するような気持ちで、思うところを述べることにしたのだった。彼が「幽霊と語る」というときの幽霊とは、この死んだ先輩・友人たちのことなのである。

その幽霊の中には、彼の親友だった中西哲吉も混じっている。中西は、「生きたい」と強く願っていながら、昭和45年5月、あと3ヶ月で戦争が終わるというときに、太平洋の藻くずになっている。輸送船に乗って南方の戦線に送られる途中、アメリカの潜水艦の魚雷攻撃を受けて船が沈没したのだ。戦争末期になると、日本の周辺には米軍の潜水艦による包囲網が出来上がっていて、南方への輸送船の8割が撃沈されている。

加藤周一は、戦争で死んだ中西哲吉たちのことを考えると、たまらない気持ちになり、自分が生き残っていることに後ろめたさを感じる、と語っている。

だから、生き残った老人は、過去に何があったかを若い世代に伝えなければならないのである。加藤が、「九条の会」の発起人になり、戦前・戦中の日本について語り続けるのは、このためなのだ。彼は過去を語るに当たっては、「ウソのないところ」を語らなければならないと言っている。「幽霊と語る」と題するこのディスクも、本当のことを語るために制作されたのである。

加藤のアタマには、過去の日本を「美しい国」などいって賛美する安倍晋三ら保守派の存在があるに違いなかった。これに対して彼は、まともな神経を持った人間にとって、戦前・戦中の日本に生きることは、拷問にかけられているように苦しかったのだと反撃する。合理的な言説は姿を消し、非合理、反合理のタワゴトばかりが横行する社会では、理性を持った人間は生きられないのである。

加藤は、日本人がいかに蒙昧にされていたかの具体例として、東京の市民の間に、米軍のB29機も宮城の上空を飛べば墜落するというような話が流布されていたことをあげる。市民の多くは半信半疑だったとはいえ、こんな話がまことしやかに流布される国家が、まともだといえるはずはない。必勝の信念を鼓吹する為政者は、理性に対する攻撃を続け、そして理性は敗北しつつあったのだった。

そんな時代に、加藤周一は軽井沢の木のベンチにナイフでラテン語の一節が彫り込まれているのを発見する。

「地には、平和を」

彼は、これを読んで日本国民のすべてが狂っているわけではないと思い、束の間、気持ちが明るくなった。

ディスクには、加藤が大学構内で開かれた講演会で話をする場面も入っていた。そこで彼が訴えていたのは、学生と老人が同盟して不戦の運動、憲法擁護の運動を続けようではないかという提案だった。日本人をとらえている集団志向の心理は想像以上に強力で、就職して世の中に出て行けば、誰でもこの力に敗北してしまう。

だが、集団意志に巻き込む外からの力は、学生に対しては比較的弱いから、学生生活4年の間は、外圧に抗して個の意志を貫くことが出来る。そして、会社を退職して自由の身になった老人も、また、集団に追随することなく生きることが出来る。

日本人は、学生時代と老年期という二つの自由な時代を持っている。この二つの自由な世代が手を結べば、時代を逆行させようとするナショナリズム陣営に対抗することが出来る。どうです、いっしょにやりませんか。

講演会が終わって質疑応答の時間になると、学生から、「愛国心をどう思うか」という質問が寄せられた。これに対して加藤は、愛国心には郷土愛のような柔らかな要素も混じっているから、一概には否定しないと言って、こう続けた。

「富士山は、日本一の山だというのはいいですよ」

それから、彼は次の言葉に老人とは思えないような力をこめて言い放った。

「しかし、富士は世界一の山だというものに対しては憎悪を感じますね」

憎悪という言葉を使ったときの加藤周一の目が、ギロリと光ったような気がした。

ディスクの末尾には、胃ガンが進行したために自宅で療養している加藤周一が映し出されていた。頬の肉が落ちて、表情に衰弱ぶりが目立っていたれども、語る言葉に筋が通っていて、頭脳は未だしっかりしていることが読み取れた。彼は、秋葉原の無差別殺人事件のテレビを見ていたらしく、問わず語りに事件の分析をはじめた。次にその分析を要約してみる。

彼によれば、明治維新以後の日本は、国民から人間らしさを奪い取ることで発展してきたという。日本人は、本当のことを口にすることが許されず、非人間的な抑圧を受けながら生きてきた。そのため社会には不平等が温存され、社会の低層にはどろどろしたものが淀むことになった。そのどろどろしたものは個人の内面にも溜まっている。

今度の無差別殺人の犯人は、そのどろどろした怨念のようなものを爆発させたのだと思う。社会に目に見えない不平等があり、個人の内面にどろどろした怨念が残っているうちは、今度のような事件はまた起こるだろう。日本も、世界も変わらなければならない・・・・。

加藤周一は、89才で死亡している。彼は死の数ヶ月前にカトリックに入信している。折あるごとに、自分は無神論者だと語っていた加藤が、入信したことに驚いている。

亡くなる前に、彼はノートに、こう書き残していたという。

   ──「死」による完全な平等──

(注:この稿は、ディスクを見たあと急いで書いたため、記憶違いの箇所があるかも知れません。乞、海容)

(つづく)