読書のための細い道
先日購入した週刊誌には、「私の読書日記」というページがあって、ここに世の識者といわれる面々が最近読んだ本の感想を書いている。今週、この欄を担当したのは、作家の池沢夏樹だった。
池沢夏樹が「読書日記」のなかに挙げていたのは、次の三冊だった。
「127億年の物語−宇宙が始まってから今日までの全歴史」
「38億年−生物進化の旅」
「東京駅誕生−お雇い外国人バルツアーの論文発見」
池沢の特徴は、世界を一望のもとに見通す広い「世界眼」を持っていることにある。この三冊の本もその立場から選ばれている。池沢の解説を読んでいると、私たちはこれらの本をすぐにも買ってきて、宇宙の始まりから、人間の出現までの流れを把握したくなるのだが、私は、そうするかわりに加藤周一の「羊の歌」を読み返すことにしたのだ。
私の頭の中には、<森鴎外 →加藤周一 →池沢夏樹>という路線図が出来上がっているのである。
ひとたび、この種の路線図が頭の中に出来上がると、関心はこの路線内で動くようになる。加藤周一の本を読んで感興をそそられたりすると、次に鴎外を読みたくなったり、池沢夏樹を読みたくなったりするのだ。そして、ひとしきりこの路線内に留まって行きつ戻りつしているうちに興味が飽和点に達すれば、別の路線に乗り換えることになる。そして、例えば翻訳物のミステリー路線の本を読み始めるのである。
私には、鴎外・加藤周一・池沢夏樹の三人が頭脳明晰である上に、共通して広大な世界眼をもっている点で類縁関係にあると思えるのだが、ほかにも彼らには共通点が多い。誰でも思いつくのは彼らが、理系の人間であることだろう。鴎外と加藤周一は医学畑の人間で、二人とも医学博士号を持っているし、池沢夏樹は大学の理工学部に入学している(その後に中退)。
そのほかの共通点としては、彼らが結婚に失敗していることをあげてもいいかもしれない。鴎外と池沢はバツイチで再婚している。加藤周一に至っては三回結婚している。だが何と言っても、一番重要なことは、彼らが複数の外国語に通暁し、他国で暮らした体験を持っていることだ。
──ところで私は、頭脳明晰ならず、くわえて日本から足を一歩も踏み出したことのない人間だから、彼らに惹かれるのは至極当然といえるかもしれない。
さて、こうして私は、いま、「羊の歌」を目の前に開いているところである。
加藤周一の「羊の歌」を読んでいると、彼は気質の点でこちらと通じるところを持ちながら、そのアタマはこちらより遙かに先を行っていることを認めざるを得なくなる。試みに、10代の頃の加藤が何を考えていたかを、私の場合と比較してみよう。
加藤と私の似ているところは、「愛国者」を嫌っていたことだった。加藤は、隣人を愛することの出来ない人間が、その代わりに国を愛するのだといっている。
「愛国心」は、日本が何ごとにつけても「世界一」であることを必要としているから、戦争中の愛国者らは、日本の天皇だけが神々の子孫であり、富士山は「世界の誰もが仰ぎ視る」はずであり、帝国陸軍は「世界無敵」であるはずだと強弁していた。
しかし、当時の日本には、「世界一」といえるものがほとんど一つもなかった。それで客観的に比較できないものが、「世界一」である、ということにされた。加藤は、「羊の歌」のなかで、こう書いている。
<大和魂、古来の淳風美俗、家族国家の理想、天地自然の美、皇紀二六〇〇年……歴史的年代でさえも、日本での算え方は、世界中の習慣とはちがっていて、比較が困難なようにできていた。・・・日本は漠然として天地創造と共に古く、漠然として「世界一」の国であるはずだった。
そういう話をあまりたびたび聞かされたので、私は「日本的なもの」にうんざりし、「西洋的なもの」を理想化するようになった。その頃の私は西洋をみたこともなかったから、西洋を理想化することは容易であった>。
太平洋戦争は私が中学五年生のときに始まったが、それ以前の日米交渉の頃から、私はこの交渉がまとまらないだろうと予測していた。アメリカは、日本が中国大陸に展開していた日本軍を撤兵させることを要求していたが、もし、日本政府がこれを呑んだら、軍部を中心にする愛国者たちが、「そんなことをしたら、大陸で散った英霊にどうやって申し開きをするのだ。彼らの死を無駄にしてもいいのか」と反対するに違いなかったからだ。
当時の日本で絶対的な権威を持っていたのは、「上、御一人」である天皇の意向と日本のために死んでいった「英霊の遺志」だったから、軍部や愛国者が英霊を持ち出して何かを言い出すと、国民は返す言葉を失い、沈黙するしかなかったのだ。
戦争に対する否定的な姿勢や、戦意高揚のためのプロパガンダに対する冷嘲的な態度では、加藤周一と私は共通していた。だが、決定的に違っていたのは、私が日本国と日本国民の反応だけを視野に容れて情勢判断をしているのに対して、加藤周一は世界を視野に容れた視点を構築していた点だった。
加藤は、片方で東京市民が真珠湾攻撃に成功したことをよろこんでいる光景を眺め、他方で世界中がそのことを全く逆の方向からよろこんでいることを見ていた。圧倒的多数の国々は、日本が真珠湾に不意打ち攻撃を加えたことによって、アメリカを反ファシズム陣営に追いやってくれたことをよろこんでいたのである。
日本がアメリカに挑戦するのは、「飛んで火に入る」虫のようなものだった。世界は、日本が負けるに決まっている戦争に突き進み、あわせて日本の同盟国ナチス・ドイツの敗北を決定的なものにしたことを歓迎していたのだ。フランスのド・ゴール将軍などは、「これで勝負は決まった」と呟いたといわれる。日米関係だけに目を奪われていた私は、世界全体を視野に容れた加藤周一のような思考形式を知らないでいたのである。
太平洋戦争の性格についても、私の見方は加藤周一の後塵を拝していた。
私は戦争末期の東京で、上野図書館に通って河合栄次郎選集を耽読していた。河合栄次郎はマルクス主義を批判するという名目の下に、かなり同情的な態度でマルクスの理論を紹介していたから、私はノートにその要旨をメモした。マルクス主義を頭において眺めると、戦争の本質が手に取るようにはっきり解った。
戦前の日本は、農業国の色彩が濃かった。国民の大半は、地主から田畑を借りて耕す小作人で、彼らは収穫物の半分を現物小作料として地主に取り上げられ、最低の生活を強いられていた。その小作人の子供たちは都会に流れて行って工場労働者や紡績会社の女工になったが、彼らの賃金は小作人たちのレベルに抑えこまれていたから、その生活は農民同様に貧しかった。
地方の農民、都会の労働者が飢餓水準で生きているとしたら、工場で作られる製品を国内で売りさばくことは不可能になる。経営者たちは、国外に市場を求めるしかなくなって輸出に精を出すことになった。低賃金労働で作られた安価な日本製品の流入を迎えた先進国は、関税障壁を高くして日本製品の流入を阻止するしか手がなくなった。
国内市場に加えて、海外市場も閉ざされるということになれば、日本は植民地や自国の勢力圏を拡大して、そこを市場とするしか方法はなくなる。かくて日本は「遅れてきた帝国主義国家」として中国をはじめアジア各国を支配下に置く政策を展開し始めたのである。
マルクス関係の文献を読んでいた加藤も、こうした見方をしていたが、さらに一歩進めて、太平洋戦争を民主主義対ファシズムの戦いというふうに規定していた。
第一次世界大戦後の世界は、確実に恒久平和、人権尊重の方向に進んでいたのに、日本社会は自己の「後れ」をそのまま肯定しようと絶望的な足掻きを続けていた。加藤に言わせれば、それがファシズムなのであった。社会の「後れ」を基礎とするファシズムと、「進み」を基礎とする民主主義との、世界的な規模での対決が第二次世界大戦であり、この対戦は、やがて「歴史」が決着をつけてくれる筈だった。
歴史の歯車は逆には廻らない。日本は、必ず敗北する、これが加藤周一の確信するところだった。
(つづく)