サードマンと「お迎え」現象(2)
日本には、死んだら天国に行って、懐かしい肉親や友人に再会すると考えている人々が多く、特に、クリスチャンはそうしたことを確信しているかに見える。しかし、一般人の場合、死後に天国で再生するという話を全面的に信じているのではなく、この点については半信半疑の状態でいるというのが本当のところではなかろうか。
クリスチャンにしても同様で、誠実なクリスチャンとして知られている某氏に、ある作家が、「あなたは、死後の復活や天国の存在について、ほんとうに信じているか」と質問したところ、「それが事実だったら、もうけものだと思っています」という答えが帰ってきたという。誠実な信者ほど、天国の存在や死後の魂の復活について決定的な判断を差し控えているのである。
そういえば、有名なパスカルの「賭けの理論」にしても、これを紙背まで読めば彼が「奇跡」について100%信じていたわけではないらしいことが判明する。
およそ、精神とか魂とかいわれるものは、生身の人間が感覚器官を通して取り込んだ素材を、脳が合成して作り上げた印象複合体に過ぎないのである。だから、死によって感覚器官が活動を停止すれば、それらは瞬時に消滅してしまう。まともな頭で考えたら、死んで肉体が焼却された後も、自己意識や魂が残るなどということはあり得ないのだ。
では、日本人が臨死体験として、死んだ人間が自分を迎えにあの世からやってくると感じるのは、なぜだろうか。
先祖信仰の普及している日本では、死んだ肉親が今もなお身近にいると感じる場合が少なくない。これは日本人が、あたかも生者に対するように仏壇に祀られた死者に水や米飯をそなえ続けることなどから醸成された疑似感覚なのだ。私なども子供の頃、「これを仏様にあげておいで」と母親に言われて、オモチャのような小さな食器に盛られた米飯をよく仏壇に運んだものだ。
欧米でも、過去の一時期、先祖信仰があったといわれるけれども、今ではその信仰は失われている。こういう欧米では、死者を身近に感じ、死者と共に生きていると感じることは、ほとんどないらしいのである。
こうして少し落ち着いて考えたら、サードマン体験もお迎え体験もその真実性が疑わしくなってくるのに、どうして人はこれらの「錯覚」に執着するのだろうか。
人は死によって、自分が完全に無に帰してしまうことに耐えられないのである。それで、肉体が失われても魂は残ると考え、その魂の落ち着く先として天国や極楽という死後の世界を想定するようになったのだ。
宗教的な幻想に頼ることが出来なかった古代ローマの哲学者は、死の恐怖に対抗するために「死の不存在理論」を考案したりしている。生きている人間に死はないし、死んでしまった人間も死を意識することがないから、死は何処にも存在しないという理論である。
われわれは、宗教に依ることなく死の恐怖に打ち勝つにはどうしたらいいだろうか。死の不存在理論に依ろうが、亀井勝一郎のように「人は眠ることによって、毎日、死ぬ練習をしているではないか。何の恐れるところがあろう」と言ってみても、自己が完全に無に帰する死への恐怖は消えない。
あれこれ策を弄してみても、結局、人は死によって無に帰するという冷厳な事実を受け入れざるをえなくなる。死ねば愛する者と天国で再会できるなどと自分を誤魔化さないで、死をリアルに受け入れるなら、新しい境地が生まれてくる。その上で、自分の死が、生き残っている人々に少しでもプラスになるように努めるなら、死の恐怖は幾分なりとも軽減する。
人々にプラスを贈与する死に方には、イエスが行った犠牲死のようなものもあれば、身を粉にして社会福祉の為に働いて息絶えるという死に方もある。しかし、そんな無理をしなくても普通に死んで行けば、それが自然に世のため、人のためになるのである。
人間の細胞は新陳代謝を繰り返していて、短期間にすっかり入れ替わるといわれている。古い細胞は死ぬことによって、新しい細胞に場所を譲り、かくて新陳代謝が実現する。人間も、「功成って退くは天の道」であり、心身の衰えを感じてきたら後進にポストを譲るべきなのだ。家族の世界でも、家長が亡くなることによって、息子なり娘なりが家長になり、家庭内の空気が一新される。
省事(無駄な動きを控える)を心がけ、自然の流れに身を任せて生きるときに、他者にとっても、自分にとっても、最良の結果が得られる。この事実を胸に刻んで、淡々と生きること以外に、死に対処する方法はないように思う。