小林秀雄と山口瞳
「小林秀雄と山口瞳」という題名を掲げると、この両者を比較して私がひと理屈こねるのではないかと予想する向きがあるかも知れない。だが、これから語ろうとしているのは、この二人について私が間違った思いこみをしていたというオバカな話だから安心してもらいたい。
私は小林秀雄の全集を持っているし、彼の講演を録音した20本のCDも持っている。小林の書いたものは、そのアクロバット式の文体に魅力があり、彼の講演には落語家の志ん生師匠の高座を聞いているような融通無碍な調子があって面白いので、この二つはいずれゆっくりと読んだり聞いたりしようと思って、あらかじめ用意していたものなのだ。
ところが全集の方は、部屋の壁際に積んでおいたら、その上に次々に雑本が積み重なり、簡単に取り出せないようになってしまっているし、CDも何故か1〜2本聞いただけで以後タンスの上に放置されていて、小林秀雄とはすっかり縁が切れた状態になっていた。それが先日、ふとタンスの上に目をやったら、CDのなかに「正宗白鳥の精神」というタイトルの付いたものがあったので、急に好奇心がわいて、これを聞いてみることにしたのである。
なぜ、急に好奇心がわいてきたのか。
その昔、トルストイの家出を巡って、正宗白鳥と小林秀雄が論争をしたことを思い出したのだ。当時、トルストイの家出は世界的なニュースになって、日本の論壇でもこの問題が大々的に取り上げられていた。このとき、正宗白鳥は例の冷ややかな筆致で、トルストイの家出を世のインテリは深刻に考えて大騒ぎしているけれども、彼の家出は本質において、そのへんの老人たちの衝動的な家出と異なることはないと論評した。それで、小林秀雄が、これに噛みついたのである。
小林は、文学を愛するものとして、トルストイをそこらの老人たちと同一視する正宗白鳥の冷評を許すことが出来なかったのだ。小林がどういう論旨で正宗白鳥に噛みついたか、もう思い出すことは出来ないが、戦後になって広津和郎に噛みついた中村光夫と同じような激しい調子だったことは確かだった。中村光夫は、カミュの「異邦人」に冷評を加えた広津和郎に向かって、「年は取りたくないものです」というような激しい言葉を浴びせ、大先輩を論難したのだった。
(註:小林秀雄は、正宗白鳥がトルストイの文学上、人生上の苦悩を無視していることに腹を立てたのだが、トルストイ家出の原因は、死期が迫ったトルストイが、自分の所有している農地を農奴に分け与えたり、年々膨大な収入をトルストイ一家にもたらしていた作品の版権を貧者救済のために寄付しようとしたことに妻が反対したためだといわれている)
私は小林が往年の論敵である正宗白鳥について何を語ったのか知りたかったのだ。
だが、結果は意外なものだった。小林は、正宗を百年に一度の天才だと激賞しているのである。そして、彼は、「正宗が認めていたのは内村鑑三だけだった」と語り、その延長線上で小林自身が文筆家として認めているのは正宗白鳥だけだと語ってもいたのだった。私は小林が正宗白鳥の思想的限界について語り、その限界を自然主義文学の欠陥から説明するものと思いこんでいた。だが、彼は私の予想とは真逆の議論を展開していたのだ。
それと同じような真逆な思いこみをしていたのが、山口瞳についてだった。
私は、山口瞳の作品をあまり読んだことはないが、彼が書いたものでひとつだけ印象に強く残っている文章があった。それは、まだ学生だった山口が、後に妻となる恋人を毎日のように白昼の裏山か何かの人気のない林のなかに呼び出してセックスをしていたというエッセーだった。以前に阿川弘之の「舷灯」という作品を読んでびっくりしたことがある。山口瞳のエッセーは、男が女を理不尽に支配する状況を描いている点で、「舷灯」と同工異曲の内容だったのである。
そのことが頭にあったから、新聞広告で「江分利満家の崩壊」という本が出たことを知った時、私は山口瞳のように横暴な男を家長とする家が崩壊するのは当然だろうと思い、その崩壊のありさまを知るためにこの本を読んでみようと考えた。それで、山口瞳の手になる「血族」という文庫本と一緒にこの本をインターネットで注文した。
本屋から先に届いたのは「血族」だったから、まず、これを読んでみた。山口瞳は、この本の中で父方の親戚について詳しく書いている。自身についても書いているので注意して読んでみると、彼の人柄は私が想像していたようなものではないらしかった。彼は書いている。
<私は屈託なく時を過すということが出来ない。いつでも緊張しているし、たえず気兼ねをしている。それで疲れてしまうし、すぐに肩が凝ってしまう。
・・・・デパートの食堂で、隣の客にお茶を注いであげることがある。そのお茶がぬるいと思うと、ウエイトレスにかえてもらう。列車に乗って、隣の席に赤ん坊がいると、あやさずにはいられない。こういうことは優しさとは無関係である。女房が私を嫌うのは、この点である。外へ出て、楽しい思いをしたことがないと言う>
やがて「江分利満家の崩壊」が届いたので、読んで行くと「血族」の記事を裏書きするような文章が随所に出てくるのだ(この本は、山口瞳の一人息子山口正介によって書かれている)。
<およそ地縁血縁に重きを置かない瞳であったが、その分、人類愛よりも隣人愛、というのが瞳の文学的な大テーマであった。・・・・父が元気だった頃は元旦に延べ百名近い来客があった>
山口瞳のような我が儘な男は、隣人に愛想よくしていても内面(うちづら)は悪く、家族から白眼視されていただろうと思っていた。が、これも間違いで、息子の正介は「父が逝ったとき、僕は毎日を泣き暮らしていた。人前で涙を見せることはなかったが、一人になるといつまでも、時に嗚咽を漏らしながら滂沱の涙を流し、めそめそといつまでも回復しない悲しみの中にいた」と書いている。
夫の瞳に対する妻の愛も、半端ではなかった。私は、欲望に駆られた瞳が恋人を毎日林の中に呼びつけて性欲を充たしていたと思っていたけれども、これは女性の方でも望んでいたことだったのである。
<父は嫌がっていたが、母は父から来た手紙は、恋愛時代をふくめてほとんど全て保存している。このこと自体、僕はあまり好きではない。なにしろ保存している手紙は、初めてもらったラブレターから、つまり鎌倉アカデミアで知り合った直後からの全て、なのだ。
この偏執狂に近いしつっこさに、父も僕も辟易することがままあった。今日では父と母のことを知る上での資料として貴重なのだが。日記はたぶん高校時代からずっと付けているのではないだろうか。父が生前、『男性自身』か何かの資料として「あの日はどうしていたんだっけ」と母に訊いたとき、その日の日記には一ページまるごと「パパのこと、好き好き好き好き……」と好き″の二言で埋めつくされていた。
・・・・父のことが新聞などで取り上げられると自分のことのように喜び、記事をスクラップして、筆者には御礼の手紙を欠かさなかった>
私は小林秀雄のことでも、山口瞳のことでも、間違った思いこみをしていたのである。これは、何が原因になっているのだろうか。
(つづく)