甘口辛口

「偶然の旅行者」という映画

2013/3/4(月) 午後 0:48
「偶然の旅行者」という映画

戦争末期の東京で、岸田国士原作の「暖流」という映画を繰り返し見たことがある。戦後になると同じ映画を何度も見るなどということを絶えてしなくなったのだが、その唯一の例外になっているアメリカ映画がある。「偶然の旅行者」という映画だ。

この映画を初めてテレビで見たのは30年近い昔のことで、そのとき私は、「これはアメリカ版の<暖流>だな」と思った。「暖流」では、主人公の日疋祐三が二人の女性のいずれを選ぶかに焦点が置かれていた。「偶然の旅行者」も、旅行ガイドブックのライターである主人公による女性選びが作品のポイントはになっていて、結局、彼は「暖流」の主人公と同じような選び方をするのである。

テレビで「偶然の旅行者」を見てから2〜3年して、ふと、「もう一度、あの映画を見たいな」と思った。30年前には、この映画からそれほど深い印象を受けなかったのに、唐突な感じでこれをもう一度見たいという思いが、まるで水の中の気泡のように頭に浮かび上がってきたのだ。すると、矢も楯もたまらなくなってビデオ店に出かけて、この映画のビデオを借りて来たのである。

だが、それが終わりではなかった。それから7〜8年すると、テレビがこの映画を再放送した。すると私は、それを待ちわびたように飛びついて、三度目の視聴をすることになったのである。

そして、つい先日(5日前)のこと、BSテレビが「偶然の旅行者」の再放送をまたやったので、私はまたもやこれにチャンネルを合わせた。四度目ともなれば、こちらの心構えも変わって来ている。この映画が、なぜこれほど自分を引きつけるのか、それを確かめるためにテレビの前に座り込んだのだ。

意外だったのは、四回目の視聴だったにもかかわらず、ストーリーの細部がほとんど頭に入っていないことだった。作品の冒頭に、主役のメーコンが、結婚18年目の妻から別居を切り出される場面が出てくる。

(おや、おや、映画の滑り出しは、こんな具合だったのかな)と、私は早くも首をひねらざるを得なかった。

妻が別れることを要求したのは、一人息子がハンバーガー店で暴漢に襲われて射殺されたという悲劇にかかわっていた。母親である彼女が子供の非業の死に打ちのめされて、生きる気力を失ないかけているのに、父親であるメーコンの方は平然としていて、妻を慰めようともしない、この冷淡さが許せないと、彼女はいうのである。

この辺の話も、私は全く覚えていなかった。そればかりか、メーコンの妻が結局、家を出てアパート暮らしを始めたことさえ忘れてしまっている。メーコンの妻が別居して家を出て行ったということは、その後のストーリー展開にとって重要な出来事なのに、これをすっかり忘れているのである。

旅行ガイド作りのために始終家を空けるメーコンは、妻が別居して不在になれば、飼い犬を誰かに預けなければならない。メーコンは、愛犬を女性の犬訓練士に預け、これが発端になってこの女性と関係を持つことになるのだから、妻が別居していることはストーリー全体にとって不可欠の案件なのだ。

犬訓練士の女性と親しくなってみると、彼女は開放的な性格で、気楽につきあうことが出来た。彼女は、離婚して病弱の息子と一緒に質素な母子家庭を営んでいた。彼女は、メーコンに対する興味を隠そうともしないで、彼を食事に招待したり、犬の訓練を一緒にしないかと誘ったりする。

メーコンが、彼女と関係を持つに至った背景には、病弱な彼女の連れ子の存在があった。実は、彼は一人息子の死から大きな衝撃を受けて、同じ年頃の子供と口をきくことが不可能になっていたのである。その彼が立ち直ったのは、犬訓練士の病弱な子供が仲間にいじめられているのを見て救ってやったからだった。すると、その子は彼の手を握りに来て、二人は手を繋ぎあって帰途についた。それ以来、メーコンは子供に関するトラウマから解放されることができたのだ。

メーコンと関係が出来た犬訓練士は、彼が仕事でパリに出かけることを知ると、メーコンには無断で同じ飛行機に乗り込み、強引にパリまでついてくるようになる。メーコンは、相手との関係が深くなることを警戒して、パリに到着後、彼女を帰国させようとする。そんなときに、彼は背中の筋骨を痛めて、ホテルのベットに寝たきりの状態になる。

こういう時に有能なのが、彼の妹だった。メーコンが電話でアメリカの妹に救いを求めると、妹はメーコンの妻に連絡して、直ぐに彼女をパリのメーコンのもとに差し向けてくれた。妹は、メーコンの妻が夫と別れたことを後悔して、復縁を願っていることを知っていたのだ。

犬訓練士の女性も、メーコンのところに駆けつけてきて、二人の女が彼の愛を求めて争うことになった。メーコンは、「暖流」の日疋祐三と同じように二人の女のいずれかを選ばなければならなくなったのだ。日疋の場合、二人の女の一方は、教養豊かな病院長の令嬢で自立しても生きて行くことが出来る女性だったが、もう一方は、これといって取り柄のない看護婦だった。日疋は、どちらの女がより多く自分を必要としているかということを判断基準にして、看護婦の方を選ぶのである。

メーコンが選んだのも、悪条件を負っている犬訓練士の方だった。が、そう考えた理由は日疋祐三の場合とは逆で、彼はどちらの女が自分を幸福にしてくれるかを判断基準にして犬訓練士にきめたのだった。日疋は自分のことより相手の立場を考慮して行動し、メーコンは自己本位に徹して、自分のためだけに女を選んでいる。このことが関連して、「暖流」と「偶然の旅行者」の幕切れを比較してみる。すると、断然、後者の方が後味がいいのである。

「偶然の旅行者」の幕切れは、こうなっている。犬訓練士は自分が到底メーコンの妻に及ばないことを知って、帰国するために空港へ急ぐ。それをメーコンが追いかけようとすると、メーコンの妻は、自分の敗北を認めて、「こうなると思っていたわ」と夫がライバルの女を追うことを許すのだ。

犬訓練士は、メーコンが追いかけてきたことで、自分が選ばれたことを知り、輝くような笑顔を浮かべる。それを見て、観客もほっとするのである。

「暖流」では、看護婦と結婚することを日疋から告げられた病院長令嬢が涙を隠して「おめでとう」と相手を祝福する場面で終わっている。この場面は、変に観客のこころに残る。観客に、妙に屈折した重い感情をのこすのである。

幕切れの場面を比較すると、自分が「偶然の旅行者」に惹かれる理由が分かるような気がしてきた。「暖流」の日疋祐三は、日本人好みの「古武士」型人間として造形されている。彼は「場」の平穏を保つために平気で自分の好尚を犠牲にする。泣きたいときにも、笑って見せるし、一番大事なものでも、望む者に与えたりする。

日疋に比較すると、メーコンの人柄は軽く、犬訓練士を含む主要な登場人物もすべて自分の好尚を大事にしている。例えば、メーコンには男の兄弟が二人いる。けれども、二人とも結婚しないで気ままに暮らしている。妹も結婚していない。妹が結婚しないで実家に留まっているのは、二人の兄を放っておけないからなのだ。誰かが、彼らの面倒を見てやらなければならないから、彼女は母親の代わりになって、テキパキと一家の雑務を処理してやっているのだ。そして、暇が出来ると、妹はトランプゲームをする兄たちの相手をしてやっている。

メーコンが勤めている会社の社長は、この妹に惚れ込んで妻にしたものの、新婚の妻が二人の兄が心配だといって実家に帰り、いつまでたっても戻ってこないことに音を上げていた。そこで、メーコンは社長に忠告して、妹を会社に呼びよせ、社内の雑務を整理させたらどうかと勧める。社長がその通りにしたら、雑然としていた社内は見違えるほど美しく、キチンとしてくるのだ。

「偶然の旅行者」の登場人物たちは、すべて「普通の人」で、自らの平凡な思いを大事にして生きている。普通の人間が、普通に暮らしていたら、悲劇は起こらないのである。私がこの映画に惹かれるのは、普通の人間の普通の暮らし、普通の願いをありのままに描いているからだ。神が宿るのは、普通の暮らしをする庶民の上なのである。