甘口辛口

藤沢周平から羽室麟へ

2013/3/13(水) 午後 9:37
藤沢周平から羽室麟へ

時代小説の書き手には、十分な学殖を備えた幸田露伴や森鴎外などがいる一方で、野史や講談本に材を取った直木三十五や吉川英治がいる。そして、その中間には、山本周五郎や藤沢周平などがいる。現代の時代小説は、この中間派が主流になっているらしく見える。

戦争が終わってからの十年余りは、吉川英治の時代だった。だが、日本人の知的レベルが上昇してくると、時代小説の読者も吉川英治の「宮本武蔵」や「平家物語」だけでは満足できなくなって、より近代的な感触を伝えてくれる山本周五郎や野村胡堂の作品を読むようになったのである。

山本周五郎や野村胡堂は、江戸時代を舞台にして丁髷を結った商人や、刀を差した武士を登場させながら、彼らが語る言葉は現代人の使っている口語であり、彼らの意識は現代的な市民意識に他ならなかった。従って、その作品は「時代小説」というよりも、「現代小説」といったらいいような内容になっている。

何故山本らの作品が現代小説ふうになったかといえば、山本周五郎にしろ野村胡堂にしろ、アメリカの現代文学を原語や翻訳で愛読している上に、日本の現代映画、特に松竹の現代映画の愛好者だったからだった

山本周五郎の作品から強い影響を受けた藤沢周平は、ペンネームまで山本から、「周」の一字を借りている。山本周五郎の難点は、倫理性によってすべての作品の味付けをしていることで、これは熱烈な周五郎ファンを生み出す一方で、周五郎嫌いを生む原因にもなっている。しかも、彼が執着する倫理は江戸時代のものではなく、現代人の市民的モラルなのである。

そこで藤沢周平は、山本周五郎の跡を追いながら、その倫理性を減らして作品の物語性をふくらませることを心がけた。おかげで、彼は周五郎よりも広い読者層を獲得している。

藤沢周平の跡を追って、先般、直木賞を受賞した羽室麟は、周平作品に学びながら周平が嫌った周五郎の倫理性を回復している。羽室は、多少読者を減らしても倫理性の強い作品を書いた方が、永続性のある読者層を獲得できると判断したのである。彼は周五郎よりも更にさかのぼって、作品を森鴎外の所謂「歴史そのもの」に近い作品に仕上げようともしている。彼が作中人物の会話を、「さよう、しからば」とか「・・・・でござる」といったアルカイック調にしたり、登場人物の行動に封建武士的性格を持たせたのは、そのためである。

だが、作中人物の言葉遣いを古拙な感じのものにしたり、人物を院号名で呼んだりする試みは成功していない。こんなことをしても、小説を読み慣れた読者は、小うるさく感じるだけなのである。しかし、作品の中に、倫理性を持ち込んだところは成功している。インターネットに寄せられた「蜩ノ記」の読後感想文を読むと、そのほとんどすべてが末尾の章を読んで涙を流しているのである。

では、作品の末尾は、どうなっているのだろうか。

羽室の「蜩ノ記」は、藤沢周平の「蝉しぐれ」を模倣した作品だが(題名まで似せている。「蝉」と「蜩」なのだ)、「蜩ノ記」を末尾まで読んで行くと、その主人公は「蝉しぐれ」の主人公とは逆の行動に出ている。そして、その行動が「蜩ノ記」の読者の多くを感動させているのである。

実際、「蜩ノ記」は「蝉しぐれ」と驚くほど似ている。

藤沢周平の「蝉しぐれ」は、「お福」という藩主の側妾と「文四郎」が織りなす愛の物語だった。二人は子供の頃、隣り合った家に住んで、近くの川でよく顔を合わせていた。お福は毎日のようにその川で洗濯をしていたし、文四郎の方は川の水を天秤棒で担いで家に運んでいたからだ。

ある日、洗濯をしているお福が指を蛇にかまれた。このとき、文四郎はその傷から血を吸い出して、毒が全身に回るのを防いでやっている。二人は、子供心に相手に惹かれ合っていたが、成人するとお福は藩主の寵愛を受けて側妾になり、やがて次の藩主を巡る藩内の争いに巻き込まれることになる。

「蜩ノ記」でも、子供の頃に心をかよい合わせていた男女の一方が藩主の側妾になり、藩内の権力闘争に巻き込まれて暗殺されそうになっている。主人公の秋谷は13,4歳の頃まで実家にいて、お由と顔見知りの関係にあった。お由の父親が実家に仕える中間で、邸内の長屋に住んでいたからだ(「蝉しぐれ」の文四郎も養子の身である)。

二人の関係は、秋谷が養子に出たことによって一時疎遠になるけれども、お由が17歳になった春に、偶然のことから彼女が秋谷を助けることになる。そしてお由が藩主の側妾になり、藩内抗争に巻きこまれ危機に瀕したとき、今度は秋谷がお由を救うことになるのだ。

「蜩ノ記」のお由も、「蝉しぐれ」のお福も、藩主の側妾になったあとで同じような藩内抗争に巻き込まれてピンチに陥る。特に、お由の場合は、江戸屋敷で危うく刺客に殺されそうになり、秋谷に守られながら命からがら屋敷を脱出しなければならなかった。ここまでのところは、「蜩ノ記」の秋谷、「蝉しぐれ」の文四郎の経歴は瓜二つと言っていいほどに似ている。が、この後で、秋谷の運命は大きく変わるのである。

江戸屋敷を脱出した秋谷とお由は、刺客たちの探索をかいくぐって、一夜を隠れ家で過ごす。このとき、秋谷は藩主の側妾と通じたという噂が流れたために、彼は切腹を命じられる。ただし、その切腹は編纂の途中にあった藩譜を10年間で仕上げた後に実行させる、ということになる。

10年後に切腹することになった「蜩ノ記」の秋谷に比べたら、「蝉しぐれ」の文四郎の人生は、藩内抗争を切り抜けた後は平穏に過ぎている。やがて、藩主が亡くなり、その一周忌後に、側妾だったお福は剃髪して、出家することになる。その出家の直前に、お福は密かに文四郎を呼び出したのである。彼女は、文四郎に妻子があることを承知で彼を呼び出したのだ。そして、厳重に秘密が守られている場所で夜を過ごし、初めて二人は十代の頃から抱いていた熱い想いを充たすのである。

切腹を10年後まで延ばされた秋谷は、その間に懸案だった藩譜を仕上げ、それを届けるために指定された寺院に出かける。藩譜を届けたら、彼は切腹しなければならない。秋谷とお由の関係を知っている寺の住職は、藩譜を受け取ってから、最後にお点前の茶を差し上げるといって彼を茶室に案内する。茶室には、藩主の死後出家して尼になっているお由が待っていた。

ここからの記述が多くの読者を泣かせたらしいので、長くなるけれども「蜩ノ記」から主要部分を引用する。お点前の済んだ後で、お由が秋谷に胸の内を語りはじめるのである。

<「討手を逃れて一夜を過ごしたおり、秋谷殿は、若かりしころの自分をいとおしむ想いから、わたくしをお助けくだされたとおっしゃいました。ですが、その後は互いに何も言葉を交わすことなく朝を迎えました。六年前、この寺にてお会いしたおりも心の内をお話しすることはありませんでした(6年前にも、二人は必要があって、ここで会っている)」

「さようでありましたな」
秋谷の声にも、懐かしむ響きがあった。

「されど、何も言わずにいたことがいまは悔やまれます。あのおりに申し上げたかったことをロにいたしとうございますが、お許し願えましょうか」                  
松吟尼(お由)が伏し目がちに言うと、秋谷は(さび)のある声で答えた。
「なんなりと」

「あの夜、わたくしは、このまま秋谷殿とご一緒にどこか遠くへ参ることができたら、と思っておりました。とうていかなわぬこととはわかっておりましたが……」

黙して聞いていた秋谷は、しばらくして口を開いた。
「わたしがかなわぬ想いというものを知ったのは、わが家に仕えていたお由殿が知らぬ間に殿のご側室に上がったと聞いた時でござった。あのおりにどういたせばよかったものか、いまもってわかりませぬ」

松吟尼は秋谷に愁いを含んだ目を向けた。
「もしも違う道を歩めば、かように悲しいお別れをせずにすんだのやもしれませぬ」
                 
涙を浮かべて見つめる松吟尼を、秋谷は愛惜の情を湛えた眼差しで見返した。
「違う道を歩みましょうとも同じであったのではありますまいか。若いころの思いを、ともに語れるひとがこの世にいてくださるだけでも嬉しゅうござる・・・・かように松吟尼様とお会いいたしておりますと、それがしもこの世が名残惜しゅうなります」

「ならば、いまからにても、ご家老にお願いいたせば」
            
松吟尼はすがりつくように秋谷を見た。秋谷は有るか無きかの微笑を浮かべた。
「それは、未練と申すものでござる」と言い置いて秋谷は頭を下げ、静かに茶室を後にした。障子越しに松吟尼のひそやかな鳴咽が聞こえてきた>

女性の側が、果たせなかった思いを充たそうとして男に働きかける点は、「蝉しぐれ」も「蜩ノ記」も同じだ。これに対して、藤沢周平の描いた文四郎は女性の申し出を受け入れて互いに思いを遂げるのに、羽室麟の秋谷は「それは、未練と申すものでござる」と拒否して切腹の場に向かってしまう。

私くらいの年齢になると、両者を比較して文四郎の行動をよしとするようになるが、若い読者は秋谷の生き方のほうを肯定するらしい。この差異はどこから来るのだろうか。