「砂の女」の結末
安部公房の「砂の女」が映画化されたのは1964年だったから、もう49年前のことになる。私は、その映画を30代の半ば頃にテレビで見た。いい映画だった。それで、その後何年かして「パソコン通信」なるものを始めたとき、そのフォーラム欄に、この映画を賛美する長い文章を書いたのであった。
近頃、私は関心がある作家や評論家だったにもかかわらず、これまでその著書をほとんど読むことなく過ごしてきた人物について調べはじめている。この先、余り長く生きられそうもないのに、彼らの作品を知ることなしに死んでいくのは残念だと思うようになったからだ。
そういう作家の一人が正宗白鳥であり、もう一人が安部公房なのである。正宗白鳥については小林秀雄が推奨していることを最近知って、福武書店版の「正宗白鳥全集」全巻を購入して読み始めている。だが、安部公房については、学生時代に友人が褒めそやすのを聞いて、そのうちに読んでみようと思いながら、まだ一冊も読んでいないもである。安部公房といえば、彼の原作を映画化した「砂の女」を以前に見たことがあるだけなのだ。
──映画「砂の女」を見たのは、50年前のことになる。だから、細かな筋は忘れてしまっている。主な登場人物は、岡田英次が扮する学校教師と、岸田今日子が扮する「砂の女」の二人だけで、残りの添景的な人物も数名しか画面に顔を出さない。唯一の見せ場といえば、全裸になった岸田今日子がこちらに背中を向けて横たわっている場面だけだったのである。
岡田英次が扮する学校教師は、目立たない地味な男で、見たところ、これといった特徴がなかった。だが、彼はひそかな野望を隠し持っていた。海岸に棲む新種の昆虫を発見して、昆虫図鑑に自分の名前を冠した学名を残すことが出来たら、という野心だった。彼はその日も休暇を利用して、虫を探しに鄙びた海岸村にやって来たのである。
一日昆虫を探し歩いたが、徒労だった。夕方になって、男が宿屋を探していると、村の世話役らしい年配の男が現れて、彼を一人住まいの女の家に案内してくれる。その女なら、泊めてくれるだろうというのだ。だが、その女の家というのは、周囲を砂の丘陵で囲まれた、すり鉢の底のような場所に建てられた一軒家だった。
年配の男が縄梯子を下ろしてくれたので、崖のように急な斜面を降りて家の戸を叩き、泊めてほしいと頼む。すると、女は初対面の男を怪しむふうもなく、黙って彼を迎え入れて食事の用意をしてくれた。翌朝、男が目を覚ましてみると、部屋の隅で女が全裸になって寝ている。彼女は男を誘惑するために裸になっているのではなかった。家の中にも外にも、細かな砂が降り積もるので、寝間着を着ていると衣類が砂だらけになる。それで裸で寝るらしかった。
実際、砂は一日中休むことなく降りしきっていた。こんなところには、とても居られないと、男は穴の底から脱出しようとするが、縄梯子が引き上げられていて、どうすることも出来ない。男が女を詰(なじ)ってみても、女は困ったように笑い、せっせと砂をシャベルで集めてモッコに運び込む作業を続けるだけだった。モッコが一杯になると、穴の上にいる男たちがこれを引き上げて砂をどこかに捨ててくれる。そして、代わりに水や食べ物を入れたモッコを下におろしてくれるのである。
来る日も来る日も、女が砂の処理をしているのを見ていると、男も女を手伝って一緒に砂を集めるようになる。彼らは、何時しか男女の関係になっていたのだ。二人は、実質も外見も、砂から家を守る仕事に専念する仲のいい夫婦になっていたのである。
この映画を見ていると、観客である私たちには、すべてのことが村の顔役の政略によって運ばれているように見えてくるのだ。風向きの関係で砂の吹き溜まりになっている家を守るためには、夫婦二人の共同作業が必要だったが、夫が病気か事故で死んでしまって妻一人が残された。それで、顔役らが、早急に夫の後釜を捜しにかかった。そんなところへ、虫を探しに酔狂な男がやってきたのだ。
これ幸いとばかり、男を女の家に送り込んで、縄梯子を引き上げてしまったら、期待していたとおり、男と女は夫婦の関係になった。後は、男が脱出しないように用心し、もし、男が逃げ出すことを諦めてサボタージュを始めたら水と食料の供給をストップして兵糧責めにすればいい・・・・。
村の顔役たちの政略に気がついた男は、女が自分と一緒にこの穴蔵から逃げ出す気持ちがあるかどうか確かめてみる。だが、さっぱり要領を得ない。女という奴は、毎日、同じようなことを繰り返しながら、その変わりばえのしない日々の連続をこそ求めているのだ。
男は女に絶望しながら、女と手を切ることが出来ない。彼は女と共に単調な日々を重ねているうちに、自力で水を生み出す装置を作り始める。水を外部から提供されなくても、自力で作り出すことができそうだという着想が彼の頭に沸いてきたからだ。男は、途端に生き生きし始める。死ぬほど退屈だった毎日が、水製造装置の製作に取りかかってから、一転して楽しい日々に変わったのである。
私はこの映画を見ていて、男と女の違いを鮮やかに描き分けていることに感心したのだった。男というものは、単調な日常に飽きてくると、その生活の外側に複雑で手の混んだ人工の生活を作りだし、そこで生きようとする。男の考えることは、昆虫図鑑に自分の名前を一行残すことだったり、成功の見込みのない装置を発明することだったりする。男というものは、そうした無意味な、稔りのない仕事のために一生を費やして悔いない存在なのである。だが、女は生きるということが単純作業を反復することだと思い決めて、同じ手作業を死ぬまで営々と続けるのだ。
「砂の女」を書いた安部公房も、これを映画化した勅使河原宏も、いきものとしての男と女の違いを描き出そうとしたのである。そして彼らは、見事にそれに成功したのだ・・・・・
(しかし、あの映画の結末は、どうなっていたろう?)
何しろ、50年近い昔に見た映画である。あの夫婦がその後どうなったのか、どうしても思い出すことが出来なかった。
(こうなれば、「自炊」でデジタル化した原作を読むしかないな)
私は、パソコンに「砂の女」の原作を呼び出して、読み始めた。
(つづく)