質素な生き方
テレビを見ていたら、あるお笑い芸人が仲間の某について、こう批評していた。
「あいつは、人を笑わせるためなら、死んでもいいと思っているんだ」
これを聞いていて、バカバカしい話だと思う反面、ちょっと粛然とした気持ちにもなった。自殺した三島由紀夫のことを思い出したからだ。
三島は、読者を感動させる作品を書こうとして全力を挙げていた。だが、三島はマスコミの視聴を集めようと焦って、人騒がせなパフォーマンスを繰り返したことで、「(僕が)一生懸命泣かせようと思って出ていっても、みんな大笑いするだけです(三島が先輩作家に愚痴った言葉)」という結果を招くことになった。挙げ句の果て、彼はひとを感動させ、泣かせるための手段として、自衛隊の本部に乗り込んで割腹自殺を遂げるに至った。知名人というものは、ひとを笑わせたり、泣かせたりするために、ここまでやるものなのだ。
だから、老子は警告するのである、人間はやりすぎると、その行動は「奇」となり「妖」となる、と。そこで、彼は人々に行動面で吝嗇(りんしょく)であれと勧めることになる。
吝嗇とか質素という言葉を耳にすると、われわれは直ぐ金銭を惜しむ守銭奴を思い浮かべたりする。そして、最近の流行語の一つである「断捨離」という言葉を聞けば、物を捨てることを思い浮かべる。だが、「吝嗇」も「断捨離」も、本来はもっと包括的な意味を含んだ言葉なのである。これらの言葉は、無駄な行動を控えること、生命的活動のためのエネルギーをストックすることを勧める言葉なのである。
生まれつき怠け者だった私は、老子の影響を受けたこともあって、早くから社会的慣行へのサボタージュを実行して来た。世の中に出ると、職場の仕事を終えた後でも、やれ、慰労会だ、やれ、新入職員の歓迎会だと、勤務外の会合がぞろぞろ続くから、そのたびに上司や同僚と好きでもない酒を飲んだり、聞き飽きた世間話をしなければならない。それに、毎年のように一泊二日の職員旅行なるものが待っているのだ。
こういう諸会合に口実を設けて参加しないでいると、気の短い同僚が「義憤に燃えて」こちを詰(なじ)ることがある。
「俺らが、懇親会や職員旅行に好きで顔を出していると思うのか」
そこで、こちらも応戦する。
「じゃ、好きじゃないのなら、何で参加するんだ」
「つきあい、だよ。つきあい」
日本人に無駄な時間を使わせ、エネルギーを浪費させているのは、「つきあい」なのであった。とすれば、老子的な意味での吝嗇を実行するには、「つきあい」を断たなければならない。
私は、50代の頃から年賀状その他の儀礼的な書状を出すことを止めたし、60歳で退職してからは、自分が加入していたすべての組織や団体から退会した。一切のつきあいを「無し」にしたのだ。その際、退職すれば自動的に加入することになっている「退職教員の会」からも退会する手続きを取ったから、昔の同僚との交流も自然に断たれ、彼らの消息を知る術(すべ)がなくなった。
これまで個人的に親しくしてきた仲間といえば、結核療養時代の「療友」たちだったが、今では彼らはほとんど黄泉の人になってしまっている。そこへ教員時代の同僚とも疎遠になったから、今や、交流があるのは地元にいる数えるほどの旧友ばかりになってしまった。
だが、私は自分を孤独だと思ったことは、一度もない。読書癖のある人間にとって、孤独だの寂寥だの退屈などといった言葉は、生涯無縁なのである。これまで名前さえ知らなかった著作家でも、彼の本を読んで共感するところがあれば、その瞬間から彼は千年の知己になるのだ。本が好きな人間には、読んだ本の数だけ友人がいるのである。
運動についても、「吝嗇」が必要だった。
退職後は、運動のため犬を連れて散歩したり、天竜川の土手を歩いたりしていたが、心臓に肥厚と不整脈がある身ではそれが負担になって、何時しか外を歩くことを止めてしまった。その代わり、一日に一回、自宅の細長い敷地内を木々や野菜や草花を眺めながら往復することにした。そうすれば、毎日100メートルを歩いていることになる。それに、二階に自室があるので階段の上り下りにも足を使っている。運動は、これだけで十分なのである。
質素な生活とは、生命エネルギーを浪費しない暮らしであり、生命規範に従った生活である。
おらが世やそこらの草も餅になる(一茶)
あるものをつつしみて食べ一人居の
老いの一年送らんとする(千葉松戸 原美智子)