心の断捨離を(その2)
前回のブログで断捨離について触れたけれども、それ以前にも「心の断捨離を」というタイトルで断捨離について書いたことがある。それを読み返してみると、やはりエネルギーの浪費に関連して、いくつか事例をあげている。
例えば、こんな具合だ。
「欧米の学校では、生徒が体育館などに集まって校長の話を聞くのは学校を卒業するときくらいしかないらしいのに、日本の学校では学期の始まりと終わりに始業式と終業式というものがあって、その度に学校長の退屈な訓辞を聞くことになる」
日本の学校は、小学校から高校まで三学期制になっているから、生徒たちは一年間に6回の校長訓示を聞くことになる。私は、校長が各学期の前後に訓示する内容について、二ヶ月前から準備していると聞いて、大いに同情したものだった。校長がどんなに立派な訓辞をしても、生徒たちは、体育館を出るや否や、校長訓示のすべてを綺麗さっぱりと忘れてしまうからだ。
それでも、戦後は未だいい方なのである。私たちが旧制中学校に通っていたころは、頻繁に、朝礼というものがあって、全校生徒が校庭や体育館に集まって集会を行っていたのである。そして、校長や教頭、あるいは学校に送り込まれている軍人(配属将校)の訓示を聞いたり、皇居に向かって拝礼したりしていた。集会が長くなると、途中で倒れる生徒も出てきた。ある冬の朝、朝礼中に仰向けに倒れた生徒が床板に頭を打ちつけ、コーンと乾いた音を立てたことを今でも鮮明に記憶している。
過去のブログを読み返すと、政治家たちの行動についても触れている。
「テレビでお馴染みの光景がある。閣議の席に首相が現れると、すでに待ちうけていた閣僚が一斉に立ち上がって首相を迎えるのだ。何処の国でも外国から賓客がやってきたり、大統領が年に一度の教書を発表するようなときには、議員らは立ち上がって歓迎の気持ちを伝える。だが、閣議などのような日常的に開かれる会議で、日本のように閣僚がその都度一斉に立ち上がって首相を迎えることをしている国がほかにあるとは思えない」
「もっと、異様なのは天皇が大臣を認証するときの場面だ。新任の閣僚は、首相に伴われて皇居に参上し、天皇の前に直立不動の姿勢で立ち、卒業生代表が校長の前に進み出るようにして認証書を受け取るのである。イギリスでは、国王が首相を認証するときなど、二人だけで互いに椅子に向かい合って座り、談笑裡にことを済ませている。民主国家なら、これが本来のやり方なのである」
「テレビを見ていて、思わず猿芝居を連想してしまう光景がある。記者会見ををする官房長官などが、まず、会見室に置かれた国旗に一礼する場面がそれで、国旗に対する評価が国民の間で分かれている今日(こんにち)、わざわざ国旗に頭を下げてみせるのは、保守層に媚びを売るための行為なのだ。そして、こうした意味のない形式的行為が学校現場に流れてきて、入学式、卒業式には国旗を掲げ、国歌斉唱を強制することになる」
政治家たちのこういう行動を見ていると、日本では民主主義の根幹を成している「人間平等」の意識がいまだに確立していないことが分かるのだ。首相は閣僚を選任するけれども、両者は国民から選ばれて立法活動に従うものとして対等であり、両者の間には、本来、上下の関係などないのである。天皇は首相や閣僚を任命するけれども、これも公務のひとつとして行うのであって、両者の間に君主と家臣の関係があるわけではない。
わが国の社会に未だに人間平等の原理が定着しないのは、人間平等意識を支える合理主義が徹底していないからだろう。戦前の日本では、学校教育の一環として今で言えば高校の段階になっても、まだ天皇は生きている神だ(現人神)と教えていた。
一度、天皇は生ける神だという荒唐無稽な背理を受け入れてしまうと、物事を合理的に判断することが困難になる。頭では不合理な社会的慣習を否定していても、それを行動に表すことをためらうようになり、結局、背理が横行する現状を黙認する性癖が身についてしまう。
背理の黙認という点は、既成宗教の世界でも横行している。
「『イエスはキリスト教徒ではなく、釈迦は仏教徒ではない』という言葉がある。
われわれが虚心になって聖書や阿含経を読めば、キリスト教徒や仏教徒がイエス・釈迦の名の下に行っている教義や宗教儀式の多くは、開祖が固く禁じているものだったことが判明する。もし、イエス・釈迦が甦ったとしたら、二人ともキリスト教や仏教を否認し、これに反旗を翻すだろう」
合理的な目で見るなら、大抵の社会的慣行は内容のない形式的・儀礼的な行為に過ぎない。そして、そのような行為を正当化する教説は、すべて「壮大なるガラクタ」であって、理性の前に出たら昼間の幽霊のように消えうせてしまう代物(しろもの)なのである。
現代においても、マスコミを通して、或いは学校教育を通して、この「壮大なるガラクタ」が人々の頭に注入されている。これらのガラクタは、合理的精神をもって臨めば忽ち消えうせ、そのあとから広大な真実世界が現れる。ガラクタは、この果てしもない「事実唯真」の世界をベールで覆い隠していたのだ。
だが、ガラクタが隠していた広大な世界には、にがい味がすることも事実である。ガラクタは人口甘味料で味付けされているが、「事実唯真」の世界にロマンの甘さはなく、にがいニヒリズムで塗りつぶされているからだ。
すぐれた思想家や作家には、いずれも広大な視界を持つニヒリストだったという共通点がある。最近読み始めた正宗白鳥も視野広大な文壇人だったが、死を運命付けられた人間に幸福ということはあり得ない、人は本質的に不幸であり、生まれてこない方がよかったのだと断じるニヒリストだった。
だが、彼らのニヒリズムは終着点ではなく、その向こうにもうひとつの世界を望み見ているニヒリズムだった。
図式的にいえば、こうなるのである。人はまず学校やマスコミから、社会的な人間になるように洗脳され、現状にしがみつく保守的で暗愚な人間になる。次に、合理主義を武器にして、その暗愚な世界を打破して、広大な世界に出るが、それは現世を全否定するニヒリズムの世界だった。最後に現れるのが、全否定を反転させて現世を全肯定する「慈」の世界であり、かくて人間は、
暗愚人→ニヒリスト→慈人
という三段階をたどることになる。そして、暗愚人からニヒリストに移る時点、ニヒリストから慈人に移る時点で、それぞれ「断捨離」という飛躍を経なければならないのである。