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高齢者の読書(1)

2013/6/4(火) 午後 9:57
高齢者の読書

私は、肺と胃を切除している上に、心臓に問題を抱えているため、60歳までは到底生きられないだろうと覚悟していた。それが、何とか生き延びて、下手をすると90歳まで生きられそうな気配になっている。これには、誰よりも本人自身が一番驚いている。早逝を予想していたにもかかわらず、今や私は間違いなく、「高齢者」の部類に入ったのである。

高齢者ともなれば、頭脳の老化は防ぎ難(がた)く、「読書生活」にも悪い影響が現れてきている。最近、頭を悩ませているのは、翻訳小説などを読んでいて、登場人物の名前をすぐ忘れてしまうことなのである。退職後、翻訳物のミステリーを耽読していた頃には、作品の中にぞろぞろ出てくる人物名を苦もなく記憶出来たのに、今や翻訳書を数ページ読んだだけで、もう人物の名前がごちゃごちゃになって、話の筋を正確にたどることができなくなっている。

そこで、読書の主軸を外国文学を渉猟することから、日本人作家の作品を読み返す方向に切り替えることにした。かくて正宗白鳥全集と山本周五郎全集が座右の書になった。

正宗白鳥に着目したのは、小林秀雄が推奨していたからだった。その後に知ったところでは、正宗白鳥を愛するのは小林秀雄だけでなかった。各界の有識者の間に、正宗白鳥のファンは意外に多いのである。それはなぜかと言えば、83歳で亡くなるまでの60年近く、「生涯現役作家」として活躍した白鳥の膨大な作品のすべてに、正宗独特のスタイルが刻印されているからだった。

彼は、小説・戯曲・批評・随筆など多種多様の分野に手を染めている。それら多様な作品からは、冷徹な目で人の世を眺めてきた正宗個人の独語とつぶやきが聞こえてくるのだ。正宗白鳥の全作品が、兼好法師の「枕草子」やモンテーニュの「随想録」と同様に彼の生涯を賭けての観察と思索の長大な絵巻になっているのである。

私は、学生時代に正宗白鳥が自らの実家を題材にした私小説を読み、その辛辣な筆致に恐れをなしたものだった。彼の貧しい実家には、才能もないのに画家を志して洋画を描いている弟や、参考文献や書物をいじくり回している学者志望の弟たちがいて、一家の資産を食いつぶしている・・・・

これを読んで、私は彼の実家には何時までたっても自立できない痴呆気味の子供たちがいて、そのために、実家はまさに崩壊寸前の状態にあると思いこんでしまったのだ。だが、事実は全く異なっていたのである。

正宗の実家は、江戸時代から続く資産家で、子供たちがいくら道楽をしても簡単につぶれてしまうような家ではなかった。そして、そこで育った子供たちはいずれも優秀で、弟に洋画家の正宗得三郎、国文学者の正宗敦夫、植物学者の正宗厳敬がおり、甥に日本興業銀行第3代頭取となった正宗猪早夫がいるというエリート一族だった。
正宗白鳥の全集は、いくら読んでいても飽きなかったが、それでも息抜きが必要になる。それで、今度は山本周五郎全集を開くことになる。
(つづく)