高齢者の読書(2)
山本周五郎の著書といえば、すぐ思い出すのが長編では「樅ノ木は残った」、短篇では「その木戸を通って」である。私がインターネット古書店経由で山本周五郎全集を購入する気になったのも、この二つの作品を読み返したいと思ったからだった。
先日、山本周五郎全集が到着したので、「その木戸を通って」が掲載されている巻を「自炊本」にして読んでみた。そしたら、何故この短篇が何時までも記憶に残っているのか、その理由が分かったのである。
初めてこの作品を読んだのは、50年以上前のことだから、ストーリーの細部は徐々に忘れ去られ、それを埋めるようにこちらの想像が新たに添加され、記憶の中の作品は原作とはかなり異なるものになっている。この作品に関する私の記憶が、50年余の間に単純化され、純粋化され、一種詩的なメルヘンのようなものに変化していたのだ。
こちらの記憶のなかで変形された物語とは次のようなものだった。
──主人公平松正四郎は独身の若侍で、彼が城に出仕している間に裏庭の木戸を通って、若い娘が屋敷に入ってくる。屋敷にいた家士や雇い人が、いろいろ問いただしてみるが、娘は記憶を全く失っていて自分が何処から来たのか説明できない。帰宅した正四郎は、家士の老夫婦に娘をあずけて、面倒を見させることにした。記憶喪失の娘を、屋敷から追い出すわけにはいかなかったからだ。
やがて娘のやさしさに触れた正四郎は、彼女を手離せなくなり、彼女を妻に迎える。正四郎に対する女の愛情も深く、二人の愛は永遠に続くように見えた。だが、いつ頃からか、女は庭の木戸をじっと眺めるようになり、そしてある日、その木戸を通って外に出て行ったまま戻ってこなくなるのだ・・・・・・。
ところが、原作を読み返してみると、物語は私の記憶とは大きく違っていた。
第一に、主人公平松正四郎は、父が藩主の側役をしている名門の家に生まれながら、長男ではなかったために25歳になるまで部屋住みの身でいた。その彼が廃家になっていた平松家を再興することになった時に、推されて平松家の当主になり、おまけに城代家老の娘と婚約するという幸運に恵まれる。正四郎は、上昇気流に乗った幸運児として設定されているのであった。
第二に、娘は木戸を通って屋敷に入ってきたのではなかった。私は、「その木戸を通って」という題名が印象的だったから、女は屋敷に入るときも出るときも、木戸を通ったと錯覚してしまったけれども、原作では女は玄関から入ってきたと明記されている。その折の女の描写は原作ではこうなっている。
<娘の髪かたちやみなりは武家ふうであるが、見ると着物は泥だらけで、ところどころかぎ裂きが出来ているし、髪の毛も乱れ、顔や手足にもかわいた泥が付いてい、履物は藁草履であった>
家士が女に、何の用があって当屋敷に来たのか、あなたの住居はどこにあるのかと繰り返し訊いるうちに、女はふらふらと玄関先で倒れてしまったのだった。それで、家士らは、娘を家の中に抱き入れて、床を取って休ませている。女の様子からすると、彼女は何者かに暴行されそうになったために、必死になって逃げ延びてきたものと想像される。
第三に、正四郎は女と結婚する以前に、女の素性を明らかにするために、彼女を屋敷から一旦追放している。彼女の跡をつけて行けば、相手の住まいが判明するかも知れないと考えたからだ。
正四郎が跡をつけて行くと、雨の中を屋敷から追い出された女は、雨合羽を身にまとって、頼りなげに歩き始めた。城下町から約一里半、まもなく本街道へ出ようとするところで、娘は足を止めた。そして、道の脇にある観音堂へ向かった。堂守りもいない小さな観音堂だったが、それでも縁側へあがれば雨をよけることができる。正四郎は、女に気づかれないように、堂の横から裏へまわって、屋根の下へ身をひそめた。日暮れと共にあたりは寒くなってきている。正四郎は、堂の角からそっと女の様子を覗いて見た。
娘は縁側に腰をかけ、両肱を膝に突き、顔を手で掩つていた。よく見ると、躯が小刻みにふるえている。かすかに「おかあさま」と云うのが聞えた。泣いているのだろう、その声いかにもよわよわしく、そして絶望的なひびきを持っていた。
「おかあさま」と咽び泣く娘の声が聞えた。この時、人気のなかった道に酒に酔った駕籠かきらしい二人の男が現れ、娘に目をつけたらしかった。二人が娘を連れ去ろうとしたので、正四郎は飛び出していって男たちを追い払った。それから正四郎が話しかけると、娘は低い声で屋敷を出る決意を固めた理由を説明する。
「わたしがいては、平松さまのご迷惑になるとうかがいましたので」
正四郎が娘を自宅に引き取ってから、彼の周辺で悪評が飛び交うようになり、城代家老の娘との縁談も頓挫しかけていた。彼が女の素性を明らかにしようと考えたのはそのためだし、家士が娘に因果を含めて屋敷から退去させたのも同じ理由からだった。
正四郎が娘を娶ることにした直接のきっかけは、雨の観音堂で娘がさらわれそうになるのを目撃したからだった。正四郎夫婦の間には、すぐ可愛らしい女児が生まれたが、結婚生活4年後に女はその女児を屋敷に残して失踪してしまったのである。
第四に、正四郎の屋敷には何処にも木戸はなかった。女が「木戸を開けて外に出て行く」というときの木戸は、彼女の想念の中にある木戸であって、現実に存在する木戸ではなかったのだ。「木戸を出る」とは、それまでの生活を捨てるという意味であり、「木戸を通る」というのは、新しい人生を始めるという意味だったのである。
──「その木戸を通って」という作品は、正四郎が祈るような思いで、妻は必ず帰ってくると信じるのところで終わっている。彼女には、女児があり夫がある、いくら記憶喪失の病気を抱えているといっても、よもや妻が娘のこと自分のことを完全に忘れてしまうはずはないと考えたからである。
だが、読者は正四郎のような楽観論を抱くことは出来ない。外の世界に出て行った彼女は、また観音堂で男たちに襲われたような苦難に遭うのではないか。そして彼女は、着物にかぎ裂きを作り、髪の毛を振り乱して見も知らぬ屋敷に逃げ込むような羽目になるのではないか。幸いにその屋敷に引き取られたとしたら、その屋敷の当主に気に入られて第二夫人にされる可能性もあるというような想像をしてしまうのだ。
山本周五郎自身もそうした予想をしながら、ひとまず、筆を置いたに違いないなかった。作家として彼が卓越しているのは、常人よりも遙かに鋭い目で事件の先を読んでいるからだった。「樅ノ木は残った」という作品は、仙台藩のお家騒動で悪人とされてきた原田甲斐に対する見方を逆転させた長編小説なのである。
「その木戸を通って」が不思議に読者の心に残るのも、この作品が正四郎の期待に反して、悲劇で終わりそうな予感を与えるからだ。山本周五郎も「大衆小説」の作家だから、作品をハピーエンドで終わらせることが多い。しかし彼は、どんな場合も人間の生涯について楽観的な見方をすることはないのである。