仙人志願(2)
この項を書いているうちに、33歳当時の宗教的な体験を思い出した。その頃、私は鬱病の症状を呈していて、毎日を鬱々として過ごしていたのだが、ある夜、突如として至福の瞬間を体験したのだった。
私の知人には、至福体験とか、至高体験とか、宗教に関連した言葉を聞くと嫌悪の表情を浮かべるものが少なくない。けれども、世の中には私と同様の体験をした男女が意外に多くいるのである。とすると、人間の意識には鬱々とした層の下に、生きることを喜びとするもう一つの層があると仮定してもいいのではないかという気がしてくるのだ。
そこで、私は、かなり前のことになるけれども、鬱々とした意識の層を「表自己」、その下に潜んでいる意識の主体を「裏自己」と呼ぶことにして、次のように仮定してみたのである。
──「表自己」の中核にあるのは自己保存本能で、自身と自分を取り巻く人間関係に常に注意を払っている。「裏自己」の方は、自我意識を超えてより広い世界をとらえており、その世界像を表自己に提示している。従って、「表自己」を主我的自己とすれば、「裏自己」は自我を包越した超越的自己ということになる。人は、この二つの意識、二つの自己の間でバランスを取りながら生きている。
では、至福体験、至高体験は、どのようにして生まれるのだろうか。至福・至高の体験は、表自己の側に増投されたエネルギーが自身を支えきれなくなって、反転して裏自己のとらえた世界を隅々まで照射するときに発生するのではないか。
表自己は自身が窮地に立っていると感じると、エネルギーを無闇に自身の側に取り込むから、裏自己の世界捕捉能力をゼロにしてしまう。だから表自己は、自分以外の世界が見えなくなり、「鬱病」という病的症状を呈するようになるのだ・・・・。
私たちは小規模な至福体験なら、日常的に経験している。何か心配事があってくよくよ思い悩んでいるとき、それが解決すると人は幸福感におそわれ、万物肯定の心境になる。この気持ちが極限まで達した状況が至福体験といわれるもので、自己を含む全存在を肯定し、他者のすべてに深い愛情を注ぐようになる。そして、もうこれ以上望むことはない、この瞬間を味わうために今日まで生きてきたのだから、この瞬間に死んでもいいという気持ちになる。
人間は、いずれは死ぬべき運命にあるから、生まれながらに悲劇的な存在なのである。だから、道家も道教も不老長寿、不老不死を最重要の目標にして修行したり祈祷したりするのだが、この願いが果たされることはない。
だからこそ生命は不可避の死という残酷な宿命をカバーするに足る至福・至高の世界を人に体感させてきたのだ、死が何者にとっても避け得ない現実だとしたら、人を救済するには恐怖感なしに死を迎えるという方法しかないのである。
私は結核療養所にいた頃、先輩の患者から療養所にクリスチャンの看護婦が多い理由を教えられた。それは結核患者がバタバタ死んで行ったあの時代に、クリスチャンの患者が比較的に落ち着いて死を迎えるのを見ているからだという。信仰者以外にも、平静に自身の死を迎えるものは多い。経験知によれば、善人はクリスチャン以上に死を恐れることが少ないのである。
では、私たちのようにクリスチャンでもなく、善人でもない人間はどうしたらいいのだろうか。「仙術」によって不老長生を実現することが、不可能だとしたら、やはり私たちは老子の助言に従って、生命規範に従って生きるという方法を選択するしかないのだ。これまで使ってきた用語でいえば、表自己に集中しているエネルギーを解き放って裏自己に振り向けるという「還元術」である。
裏自己とは、生命の純なるものに他ならない。この純生命は自他のすべてを全面的に肯定し、その営為をことごとく受容し、やがて到来する自らの死をすら受け入れる。「還元術」とは、こういう生命の原型に帰ることであり、人間の「素」に還帰することなのだ。具体的にいえば、「足を知る」という一語に尽きるのである。