甘口辛口

仙人志願(1)

2013/6/25(火) 午後 6:35
仙人志願

例えば、キリスト教ではイエスの忠実な弟子たちは「聖者」と呼ばれている。キリスト教における理想的人格が「聖者」だとしたら、仏教における理想的人格は「仏」である。仏教では、欲望の呪縛から解き放たれて仏性を実現すれば、誰でも皆ホトケになるとされている。すべての人間は、仏性を持っているが故に、死ねばみな「成仏」して、ホトケになるわけだ。

ところが、老荘の道を究めた理想的な人格が何と呼ばれているかと言えば、これがハッキリしていないのである。老荘の哲学に基づいているとされる中国固有の民間信仰「道教」によれば、その理想的人格は「仙人」ということになっているので、一応、「仙人」を道家の到達すべき理想的人間ということにしておこう。

道教が目指すのは「福」「禄」「寿」の三つであって、つまり、幸福にになり、金持ちになり、長生きすることを目指している。この三つのうち、「福」だけが漠然としているけれども、中国人にとっての幸福とは、家に子供らが満ちあふれ、その家族がみな円満に暮らしているという状態なのである。キリスト教や仏教が、あえて放棄することを求める世俗的幸福を切望している点で、道教は低俗な宗教かもしれない。だが、江戸時代以来、日本の庶民も、「家内安全、商売繁盛」を一種の宗教のようにして生きてきたのだから、中国人を軽蔑する資格はないのである。

さて、私は道家思想に興味を抱いている人間として、これまで仙人にも関心を払ってきた。だが、仙人が、広辞苑に記載されているような人物だとしたら、とても仙人を志願する気にはなれない。広辞苑では、仙人についてこう説明しているのだ。

<道家の理想人物。人間界を離れて山中に棲み、穀食を避けて不老不死の法を修め、神変自在の法術を得たというもの>

中国式の仙人がこちらの趣味に合わないとしたら、自分で納得できる仙人像を作り出すしかない。そこで私は、「純粋存在」という概念をひねりだすことにしたのだ。

物質はすべて自然法則に従って動くから、純粋存在者である。だが、人間は時に生命法則を無視して反法則的な動きをするから、純粋存在とはいえない。私が考える仙人とは、反生命的な動きをいっさい排除して、純粋生命体として、純粋存在者として、生きるような人間なのである。

老子も荘子も、人々に無理なことを要求しない。

人間というのは、年頃になれば好ましい異性と生活を共にしたいと願うようになり、そう願う頃には、努力しなくても、異性を引き付ける性的な魅力が自然に備わってくる。そして、同棲するようになった男女の間に子どもが生まれると、家族が一緒に暮らせるような家や資産を求めてせっせと働きはじめる。夫婦には、そのための意欲と能力が天から与えられているのである。だから、苦労を苦労と感じないで目標を達成することが出来る。天は子供を育て上げるまでの期間を生きる寿命を人の与えているから、大抵の人間は60歳前後まで生きた後に死亡する。従って、70まで生きる者は「古来希れ」ということになっていたのである。

再言するけれども、人間は格別の努力をしなくても、「純粋生命」が内包する能力・資質の枠内に留まっている限り、天与の寿命を全うすることができる、だが、人の世を「競争社会」だと思いこんで頑張りすぎたり、富や権力の獲得を目指して努力しすぎると、天与の寿命をすり減らし、「自然生の幸福」を自ら放棄することになる。

生命規範に従って生きるということは、エネルギーをシフトダウンして生きるということだから、このタイプの人間はエネルギー面でも、余暇時間の面でも余裕をもって生きている。この余裕をどう使うかで、道は二つに分かれる。

老子系のコースは、現代風にいえば時間とエネルギーをボランティア活動や社会貢献に使うし、荘子系のコースは、それらを観察と思考、つまり「観想」に振り向ける。かくて、外向型の人間は自然に老子系コースを、内向型の人間は荘子系コースを選ぶことになる。

現代の仙人は、道教の仙人のように不老不死を求めたり、神変自在の法術を身につけたりしない。願うところは、生命規範に従って生きることであり、上昇欲求を洗い去って「素」に戻ることなのだ。生命の原型に還ることを目指すから、その法術を「還元術」と命名してもいい。

「還元術」を身につけたら、どうなるか。

宇宙の営為を楽しむ →四季の循環を愛するようになる。
人間の営為を楽しむ →「その居に安んじ、その俗を楽しむ」ようになる。
個人の生涯を楽しむ →生・老・病・死を受容する。