自決前後の三島由紀夫(2)
「楯の会」を結成して「祖国防衛」に乗り出したものの、三島由紀夫の時代認識はひどくお粗末だった。彼はやがて全共闘系の過激派が各地で争乱を起し、自衛隊が治安維持のため出動しなければならなくなると予想していた。その際に、過激派は皇居になだれ込んで皇室を嘲弄する挙に出るだろうから、自衛隊と連携しつつ楯の会は皇居守護の任務に当たることになると考えていた。
当時の過激派は、米軍の基地が日本国内に建設されることに反対し、日米安保条約の廃棄を目論んでいたが、天皇制を否定して皇居に乱入することなどを考えているものは一人もなかった。だが、三島は頑強に次のような未来図を描き続けたのである。
「過激派左翼の武力蜂起→過激派の皇居占領→自衛隊の治安出動→楯の会と自衛隊による政権奪取」
この時期の三島は、おかしいほど自衛隊との連携に執着している。彼は、自衛隊一佐の山本舜勝を仲間に抱き込むことを手始めに、自衛隊幹部クラスの陸将と交遊する努力を怠らなかった。自衛隊の側でも、ノーベル賞級の有名作家が自衛隊に体験入隊して、日陰の地位に置かれている自衛隊を国軍化するために活動してくれることを高く評価していた。
憲法改正と自衛隊の国軍化は、現在の安倍晋三が掲げている目標だが、これは安倍に先んじて三島由紀夫が実現しようとしていた政策目標だった。安倍は三島の跡を追っているのである。三島は自衛隊員から「先生、先生」と持ち上げられているうちに、自衛隊は楯の会を同志として迎え入れてくれるものと確信するに至った。彼は、いざとなったら自分を中隊長に任命してほしいと自衛隊側に要求していたといわれる。
だが、三島が待ち望んでいた争乱は一向に起こらなかった。
過激派の学生たちは、反基地闘争やら国際反戦デーの名目でさかんに気勢を上げていたが、その度にそのデモ行進は警官隊の手で簡単に鎮圧されてしまっていた。三島は争乱が起きそうな時には、楯の会の会員に招集をかけて待機させ、自衛隊が治安出動するのを今か今かと待ちかまえていた。だが、計画はそのたびに空振りに終わってしまったのだった。こうしたことを繰り返しているうちに、三島も森田必勝の持論であるテロに惹かれ始める。
三島が自衛隊を出動させて国会を包囲し、憲法を改正させ、自衛隊を国軍に切り替えるというクーデター計画をいつ頃から考え始めたのか、そしてこのプランの立案に森田がどの程度関与していたかを明らかにすることはできない。現在明らかになっているのは、三島がこのプランを自衛隊一左の山本舜勝に示し、自衛隊員が内部から呼応して決起することをもとめたとき、山本がこの案を実行するつもりなら、自分を斬ってからにしてほしいといって参加を断ったことだ。このため、クーデター計画を実行するためには、三島が自衛隊本部に乗り込み、隊員に直接訴えて計画への参加を求めるしかなくなったのである。
三島は昭和45年11月25日、「楯の会」の会員約百人の中から選抜した数人の精鋭隊員を引き連れて、自衛隊市ヶ谷駐屯地に乗り込んでいる。参加者は、それぞれ辞世の短歌を詠み、市ヶ谷に向かう自動車の中では、やくざ映画の主題歌「唐獅子牡丹」を合唱して意気軒昂としていたが、その計画はやはり杜撰を極めていた。
計画によれば、三島は自衛隊員を本部総監室前の広場に集め、隊員たちを説得して計画に参加させることになっていた。三島はバルコニーからアジ演説をするために二時間を予定していた。が、演説に二時間もの長丁場を予定しているとしたら、広場に集結させた隊員らを整列させてその場に座らせ、落ち着いて三島の話を聞く姿勢を取らせる必要があった。
だが、三島はそうした指示を事前に与えなかったから、本部前に集まった隊員らは火事場見物に集まった群衆そのままの表情をしていた。彼らには、これから何が始まるか皆目分からなかった。それで彼らは、見せ物を眺めるように三島を見上げ、三島が用意してきたビラを撒いても、それを拾って読んでみるものもなかった。
とにかく何から何まで変梃だったのである。本部前に集まった自衛隊員に二時間かけて決起を促す予定だったのに、マイクの用意さえしていなかったのだ。ビラを撒き終わった三島は直ぐに演説を始めたが、それが聴衆にハッキリ聞き取れないのである。それに苛立ったのは、むしろ自衛隊員の方だった。聴衆から「そこを降りてきて、こっちに来てしゃべれ」という声がかかるようなありさまだった。
アジ演説は、惨憺たる失敗に終わった。
バルコニーから総監室に戻ってきた三島は、誰に言うともなく、「仕方がなかったんだ」とつぶやいて切腹の準備に取りかかった。
若松プロダクションの実録映画を見ていて、新たに知ったことは切腹の準備をしながら、三島が森田必勝に、「お前が死ぬ必要はない」と声をかけていることだった。計画があまりにも無惨な失敗に終わったので、三島は森田を道連れにして死ぬことにためらいを感じたのだ。三島は腹に短刀を突き刺すときに、廊下にも響き渡るほどの声で「やア」と叫んだとされているが、映画では全身の力を込めて「うオツ」と怒号したことになっている。この方が真実に近いように思われる。
森田は三島に制止されたが、三島に続いて腹を切っている。自衛隊本部に乗り込むときには彼らは短刀を二本用意していたのだが、森田は三島の使った短刀で死ぬことを選び、鮮血にまみれた三島の手から短刀をもぎ取っている。三島は短刀を固く握りしめていたので、その指を一本一本柄から引き離さなければならなかった。この場面は、見ていてかなり衝撃的だった。
映画には、省略されている場面もあった。
それは、介錯役に回った森田が、三島の首を切り落とすことに三度失敗して、結局、剣道の心得のある古賀がその役を代わって引き受ける場面で、古賀は一刀のもとに三島の首を切り離している。彼は森田が切腹するときも介錯役を引き受け、これも見事に成功させている。自衛隊本部に乗り込んだ楯の会のメンバーは、大小様々の失敗を冒しているけれども、唯一、鮮やかなところを見せたのは、古賀だけだった。
この映画の終わりに古賀が再び現れる。古賀ら三名の「楯の会」会員は、事件後公判にかけられ4年の実刑判決を受けている。古賀は出獄後に三島未亡人から招待され、二人で酒を酌み交わしたらしく、その折りの会話が映画の最後をかざっているのである。このとき、古賀は未亡人から、こう質問されている。
「古賀さん、夫の遺体を残して総監室を出るときに、どんな気持ちがした?」
問われた古賀は、無言で両手の手のひらをひょいと上に向け、空から落ちてくる雪を掌で受け止めるような仕草をした。それは、「一切皆空」というポーズとも取れるし、重い任務を三島・森田から託されたというポーズにもとれた。
判決の主文を読んでみると、以下の文章が記載されている。裁判長が被告らに呼びかけた言葉である。
「学なき武は匹夫の勇、真の武を知らざる文は譫言に幾(ちか)い・・・・事理を局視せず、眼を人類全体にも拡げ、その平和と安全の実現に努力を傾注することを期待する」