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老年志向型人間(2)
2013/9/22(日) 午後 0:48
心理学者などによる「性格論」を読むと、その多くは人の体型・体質によって性格が決定されるという観点に立っている。ここでは、その一つ、シェルドンの性格論を、少しばかり我流の解釈を交えながら紹介してみよう。
シェルドンは、人間の性格を三つに分類している。「青春志向型」、「老年志向型」、「家庭志向型」の三つだ。それぞれの特徴をおおざっぱに示すと、こうなる。
「青春志向型(筋骨型)」=筋骨が発達してアスリートのような体型をしている。彼らはこの筋骨を生かして存分に活動するときに生き甲斐を感じる。年を取ってからも若作りのお洒落をする、そして、「生涯現役」をスローガンにして社会の第一線で活躍し続ける。冒険を好む。筋骨を最高度に駆使する状況とは、冒険をするときだからである。
「老年志向型(神経型)」=シェルドンは、この型を「頭脳型」としているが、「神経型」とした方が実態に合致していると思われる。神経が繊細で鋭いために、他者との接触・交渉によって傷ついたり疲労したりすることが多く、そのため刺激の少ない孤独な生活を求める。そこで、穏やかな刺激を得るため趣味・嗜好の世界、学問・芸術の世界を渉猟する。
「家庭志向型(胃腸型)」=内臓、特に胃腸が発達していて、家族や気の置けない友人と飲食することを好む。胃腸をゆっくり活動させるためには、リラックスした楽しい環境が必要だから、家族を大事にし、一家団欒の家庭を作るのに全力を注ぐ。まわりに健康な家族がおり、一家揃って食事をしていれば満足だから、人生に対して求めるところは少なく、楽天的で愉快な一生を送ることが出来る。
さて、森博嗣の父は、典型的な「老年志向型(神経型)」だった。従って、家業の建築業を必要以上に拡大しようとは考えず、蓄財の欲望も持たなかった。彼は若年の頃から営々と努力して、専門的な知識を集め、家業に必要な資材を揃えていったが、老年に近づくにつれて、それらを次々に捨て去り、最後には人生を初めた頃の徒手空拳の状態に戻っている。
森博嗣は、「父は(死に臨んで)なにもかも無にしたかったのにちがいない」と推測している。
<彼の人生の前半は、自分の周りにいろいろなものを構築する時代だった。特に、その大半は物体ではなく理論だっただろう。そして、人生の後半では、その理論を否定し、物体を捨て、どんどん最初の無へと戻っていったのだ。余りにも潔い生き様だったように思えてしかたがない。なにか手本があったのか、それとも理屈から導いた理想があったのではないか(「相田家のグッドバイ」)>
こういう父の生き方を見ているうちに、森博嗣も次のように考えはじめる。
<ただ、自分が死ぬときには、周りのみんなにありがとうと言いたい、きっとそれが理想的な死に方ではないか・・・・ぁるいは、さらに理想的なのは、誰にも見取られず、山奥で静かに死ぬことだ。そういう孤独こそが、一番望ましい。しかし、家族がいて、世話になった人間がいて、そして自分の血を引いた若者もいるのだから、そこまでの自分勝手は許されないかもしれない。だから、妥協点として、ありがとう、があるのである>
博嗣父は、家族に対して特に愛情を示すこともなかった。たまに息子の家を訪ねることもあったが、お茶を飲んでしまうと、もう帰ることを考えはじめ、1時間以上居続けることはなかった。息子や娘が父親のところを訪ねていっても、暫くすると、彼は子供たちにハッキリと、そろそろ帰ったらどうだと辞去することを催促した。
つまり博嗣父は、子供たちから大事にされることよりは、子供たちが自分を一人にしておいてくれること、放っておいてくれることを望んでいたのである。こういう夫を見ていて、妻は自分の方が長生きするだろうからと老後に備えて、せっせとヘソクリに励みはじめた。「相田家のグッドバイ」には、次のような話が載っている。
<紀彦(森博嗣)が中学生のときに、全国的にニュースになった事件があった。オーブンに入れたままの札束を燃やしてしまった主婦がいた。札束というのは百万円だった。百万円といえば、一財産である。今の百万円よりは数倍価値があった時代のことだ。自分でそこに隠したのに、うっかりビスケットを焼くために火をつけてしまった。変な匂いがするので気がついたときには遅かった、というわけである。そのうっかり者の主婦というのが、紗江子(博嗣の母)だった。
銀行へ電話をし、灰になった札束をそっとそのまま持っていって新しいお札に替えてもらったからだ。完全に燃えて跡形もなくなった場合は交換できないが、原形が確認できる程度の損傷のものは交換してもらえるらしい。新札のまま束になっていたので、隙間がなく空気も入りにくい。このおかげで燃えにくかったのだ。>
この挿話は、博嗣父が妻に百万円もの金を勝手に使われていながら、意に介していなかったことを物語っている。母親のヘソクリはこれだけに終わらなかった。母が死んでみると、彼女はなんと八千万円近い金を隠し持っていた。それらは押入の布団の間とか、百科事典の中とかにも隠されていたので、家の中の隅々を調べ終わるまで母の遺品を処分することが出来なかったのである。
──これらが、典型的な老年志向型人間の生き方なのである。
私も多分老年志向型の人間だから、「相田家のグッドバイ」を読んでいて、自分が博嗣父と同じような生き方をしていることに驚いたのだ。この型の人間は、裕福な暮らしとか、幸福な生活を求めることはない。「平坦な日常生活」が続いてくれたら、それで満足なのである。
老年志向型の人間は、躊躇することなく明言することが出来る── 一番幸福な生活とは、幸・不幸を問うことなく、そうしたことを全く意識しないで過ごす生活なのだ、と。