合理的に考えれば
二冊の本を並行して読むという悪癖があるため、先頃まで、モーリヤックの作品「テレーズ・ディスケル」と岸田國士の作品「火の扉」を同時に読んでいた。「テレーズ」はテレビモニターに映し出した「自炊本」で読み、「火の扉」の方はベットに仰臥して書見器で読むので、この二冊を読むためには椅子に座ってテレビを睨んだり、と思うと、ベットに寝て書見器を見上げたり、立ったり寝たりしなければならない。
並行して読んでいるうちに「火の扉」の方のピッチが上がって、この方を先に読み終えてしまった。それは、活字が小さいにも関わらず、老眼鏡だけで本をスラスラ読めたからだった。本を苦労なしに読めた理由は、この本が岩波書店刊行の「岸田國士全集」の中の一冊だったということが関係しているかもしれない。岩波書店で出している本は、大抵、自炊本にしなくても直(じか)に読めるのである。
「火の扉」は、戦争が終わって間もなく「時事新報」に連載された新聞小説だから、戦後の食糧不足などが生々しく描かれている。ヒロインは井出康子という中年の夫人で、美貌と知性に恵まれた魅力的な女性だということになっている。彼女は戦争末期に陸軍大佐である夫を東京に残して、長野県の飯田市らしき地方都市に疎開しているうちに敗戦となる。だが、夫は戦後処理のため勤務先の陸軍工廠から離れることができず、そのため夫婦別居の状態が続いていた。そんなところに、夫から電報が来るのだ。
「ヤスコヒトリデ スグ コイ」
井出康子は何事かと思って急いで上京して夫に会ってみると、夫は自決する決意を語り、妻の康子にも一緒に死ぬことを求めるのだ。康子は死ぬことを断り、夫に対しても必死になって翻意するように説得するが効果がなかった。
疎開先に残してきた子供のことが心配になって、夫から自決を断念したという確約を得られないままにひとまず信州に戻った康子は、その年の11月の末に夫が自殺したことを知る。夫は工廠裏のうずたかく積まれた資材の山の中で黒こげの死体になって発見されたのであった。彼はガソリンを染みこませた毛布にくるまり、致死量の劇薬を服用して意識を失う直前にライターで毛布に火をつけたのだ。
私はここまで読み進んできて、憂鬱な気分になった。
敗戦後に何人かの軍人が自決している。このとき、彼らの多くは古式に則って切腹したが、それは見るに堪えない光景だったらしい。
戦争が終わって病気休学一年の後に復学してみたら、クラスには陸軍士官学校・海軍兵学校に在学中だった学生たちが何人も転入してきていた。そのうちの一人が、敗戦の夜、指導教官が学生たちを校庭の神社前に集めて、切腹した話をしてくれたのだ。それは無惨というしかない話だった。
切腹とは、「腹を切る」とあるので、そう聞けば人は突き刺した刀を引き回して内蔵があふれ出す状態になるのではないかと想像する。が、そこまで実行するのは希有のことで、ほとんどすべては腹に刀を差し込んだ段階で介錯人が首を切り落としてやるのである。そうしたことを知らない敗戦後の日本人は、介錯人なしで腹を切り始め、突き刺した刀を動かそうとすると激痛が走るので動きが取れなくなり、絶命するまでに何時間もかかったりすることになる。
岸田国士は、そうした事実を知っていたので康子の夫を違う方法で自決させている。だが、私は戦争に負けたという理由で、なぜ、自死者が出てくるのか、その理由がよく分からないのである。
私は忠臣蔵の話もよくわからないので、いつでもまわりの友人たちと議論になってしまう。47人の赤穂浪士たちは主君の敵を見誤っていたのではないか。敵討ちをすべき相手は、吉良上野ではなく、主君にだけ切腹という重科を課した老中ではないか。例えば、学校でいじめを受けた生徒が我慢できなくなってナイフでいじめた相手を傷つけたとしたら、これを調べる学校長は公平な立場で処分を決める。いじめた側を不問にして、いじめられた方だけを退学させるようなことはしない。そんなことをしたら、処分を受けた生徒の親はいじめた生徒を詰る前に、まず、学校長に抗議するのだ。
合理的に考えたら、そうなるのではなかろうか。
これと同じ合理的な立場からすると、戦争に負けたからという理由で、敗戦に直接の責任を持たない国民や将校が自殺する理由も、よくわからないのである。
(つづく)