合理的に考えれば(2)
太平洋戦争は、「ある晴れた日」にはじまり、「ある晴れた日」に終わった。
日本国民はこの戦争がいかにして始まり、なぜ終わったのか十分知らされていなかったから、8月15日がやってきても、ただ、茫然とするばかりで、従来通りに上からの「指示待ち」の状態を続けていた。
それでも、時間の経過とともに、敗戦後の日本の進路をめぐって様々な意見が飛び交うようになり、それらは次第に二つの分派に収斂されていった。
1,守旧路線グループ
2,新生路線グループ
「守旧路線」派は、全国民が一致結束して日本の復興に当たらなければならないと考え、「新生路線」派は、軍国主義と手を切って民主国家として再出発すべきだと考えていた。しかし、両派とも政治体制をどうするかという肝心な問題に触れることはさけて、漠然と日本はスイスのような平和国家・文化国家になればいいと希望していたのだった。あの頃の日本人が異口同音に語り合っていたのは、「東洋のスイスになろう」という口当たりのいいスローガンだったのである。
これは戦前と同様に天皇制について論議することが、依然としてタブー視されていたからだった。あえて、この問題に踏み込んて天皇制廃止を主張したのは、怖い者知らずの学生運動のリーダーくらいなものだった。今や自民党のスポンサーを気取っているナベツネ氏も、学生時代は最も先鋭な天皇制廃止論者だったのである。
日本国民が逡巡して社会改革に踏み出さないでいたために、GHQ内の左派グループは天皇制絶対主義の解体に乗り出した。その最大の功績は、時の政府をして諸悪の根元だった「寄生地主制」を廃棄させたことだった。おかげで農村も豊かになって、資本主義を支える有力な国内市場に変化し、戦後日本の高度経済成長を可能にしたのだった。フィリピンが現在に至るも経済面で停滞を続けているのは、寄生地主制を打破出来ないでいるためなのだ。
さて、日本人を二派に分類した場合、日本敗北後に自殺した軍人や右翼評論家(蓑田胸喜など)が「守旧路線」グループに入ることはいうまでもないだろう。
守旧派グループは敗戦によって、普通の日本人よりも深刻なショックを受けたけれども、彼らは絶望して死を望んだりしなかった。山田風太郎の日記を読むと、彼は東京空襲の被害跡を見て、「ここまでやるか」と歯ぎしりして口惜しがり、アメリカに復讐することを誓っている。彼は右翼でも守旧派でもなかったが、米軍の絨毯爆撃がもたらした惨禍を目のあたりにして、自然発生的に復讐を誓ったのだ。守旧派の最強硬グループが、内心で山田風太郎よりも強くアメリカへの復讐を考えたとしても不思議ではない。
守旧派中の穏健グループは、復讐戦ではなく日本を復興させるために全力をあげることを誓っていた。守旧派の良心的な分子の前には日本復興という大きな使命が待っていて、自殺などは選択の範囲外にあったのである。
こう見てくると、日本の敗北を動機として自らの命を絶ったものたちの目には、今後、自分が何を為すべきか、全く分かっていなかったらしいことが判明する。理性的に考えれば.敗戦によって国内の古くて善きものが失われる危険性があるのだから、守旧派はこれらを守るために以前にも増して奮闘しなければならないはずだった。だが、自殺者たちは敗戦によって目の前が真っ暗になり、自分に課せられた任務を放棄して死を選んでしまったのだ。
だが、彼らとは反対の立場にある反戦主義者たちも、守旧派と同じように敗戦後の一年近くを何をなすべきか分からないでいた。
言論統制がしかれていた戦争中は、人々の視聴対象は「大本営発表」やら、その他の公式報道に絞られていた。国が国民の為すべき行為として列挙するものも、神社に行って戦勝祈願をするというような反合理的な行動ばかりだった。だから、政府に批判的な国民は、沈黙を守り、内心で不同意の態度を示しているしかなかった。が、今や権力による弾圧はなくなり、人々は自らの判断に基づいて行動できるようになった。国民は、口を開いて相互に正しい解を示し合わなければならなくなったのである。
反戦主義者たちは、敗戦によって、突如、自由を与えられて戸惑っていたのである。その与えられた自由は権力と戦って獲得した自由ではなく、あるエッセイストがいみじくも言ったように、「配給された自由」だった。だから、先見の明を誇ってもいいはずの主義者たちも、暫くはそれをどう扱っていいか分からないでいたのだ。
純情でお人好しの国民をこうした錯誤に導いたのは、明治維新以来、国家が行ってきた「国民教化」策が誤っていたからだった。
愚老は、以前、当ブログに「フリードリッヒ大王」について書いたことがある。
欧米の民主政治が各国の準拠すべき「世界標準」になったのは、欧米の君主が上から啓蒙思想を国民各層に浸透させ「人間平等思想」の定着をはかってきたからだった。
それまでは、各国の君主は統治者として国民が穏和で従順であることを求めていた。為政者にとっては、国民が愚かである方が御(ぎょ)しやすかったから、重要な国事については「拠らしめる」が、「知らしめない」という態度で臨み、下からの批判に対しては、国王の権力は神が授けたものとする「王権神授説」を持ち出して対抗していた。
だが、18世紀に入って啓蒙主義が盛んになると、各国の君主は、競って国民の知的レベルを引き上げる方策に転じ始めた。国民を無知蒙昧の状態にとどめておくよりも、知的水準をたかめ国民すべての人間的資質を底上げした方が、富国強兵のために役立つことが明らかになったからだった。国王らは王権神授説を自発的に放棄し、国家の主人は国民であり、国王はこれに奉仕する「下僕」にすぎないと自らを位置づけるようになった。
ところで、日本はどうだったか。明治天皇は、維新後、日本の将来について、どのようなビジョンを描いていたのだろうか。日本国民を多少愚かでも、従順で治めやすい「臣民」にして、国家的統一を保とうとしたのだろうか。それとも合理的に思考する国民を増やし、虚偽や不正を許さない風通しのいい国を作ろうとしたのだろうか。
明治の元勲と呼ばれる薩長出身の藩閥政治家たちは、欧米諸国の潮流に背を向けて、王権神授説を更に押し進め、天皇を「現人神」にまで引き揚げたのだ。そして自分たちを神である天皇の代理人として権威づけ、自由民権運動から社会主義運動にいたるまで、政府を批判する運動の一切を徹底的に弾圧してきたのだった。日本国民は、天皇が自らを「国民の下僕」と語る言葉を一度も耳にしたことがない。
司馬遼太郎は、明治の時代を賛美し、昭和の堕落を非難する。が、昭和を堕落させたのは明治の時代であり、責任の相当部分は「現人神」説を黙認して、自らを神格化することを許した明治天皇にもあったのである。
啓蒙主義とは、理性を尊重し、社会全般にわたって合理主義を徹底させようとする思想である。欧米では、理性尊重の啓蒙主義によって神権的専制政治を一掃し、そのことで近代の幕開けを迎えたが、日本では、理性否定の反合理主義によって天皇の権力をグロテスクなまでに肥大化させ、似て非なる擬似的近代を発足さた。この結果、日本人は権力に盲従し、多数に随順する国民性を身につけるようになった。
啓蒙主義を経過しない日本は、かくて「合理的に考えればおかしなことばかり」という国になってしまったのである。