下僕根性を捨ててニヒリストへ(3)
要するに、坂口安吾は徹底した合理主義者だったのである。
彼は自由人として生きるためには、「家」に縛られてはならないとの観点から、家具のたぐいを身辺から一掃している。食器類すら家庭を連想させるからという理由で持たず、本も読んでしまえばすぐに古本屋に売り払ってしまった。着るものも浴衣一枚で過ごし、寒くなったら浴衣の上に褞袍(どてら)を着込むだけだった。
こうした合理主義者としての安吾の目から見ると、社会の至る所に彼の反骨精神を刺激する現象が転がっていた。ブルーノタウトが日本の木造建築を賛美すれば、論壇に古美術ブームが起きて法隆寺を守れというような声が起きる。だが、形あるものは、必ず滅びるのだ。彼は、法隆寺の保存のために血道をあげる代わりに、銀色のガスタンクの持つ新時代の美を鑑賞せよと説き、文壇で小林秀雄が神様扱いされているのを見ると、小林と碁をうってみたが定石墨守の小心翼々たる碁だった、彼の評論もそれと同じだと酷評して見せる。
こんな具合だったから四方八方に敵が生まれる。しかし安吾はそんな四囲の声を尻目に、悠然と大道を闊歩しつづけた。
そうした彼が、マドンナを必要としたのは、いかにも奇妙なことであった。
彼は新潟の実家にいた頃は兄嫁にあこがれ、旧制中学を卒業して代用教員になってからは、数才年長の女教師を女神のようにあがめている。そして、新進作家になってからは、女流作家の矢田津世子に目がくらんで、彼女と一度接吻しただけで、もう手も足を出なくなって、ひたすら遠くから相手を拝跪し続けた。
精神構造において坂口安吾とよく似ていた直木三十五も、中卒で代用教員になっている。だが、彼があがめたマドンナは、まだ小学校に通っている少女だった。雪ちゃんというその少女は、彼が中学生だった頃、友人宅の近所に住んでいた小学生だったのである。代用教員になってから彼は、月給の大半を投じて、まだ12才にしかならない彼女に高価なリボンを買ってやったりしている。
これらの挿話は、傍若無人と想われていた坂口安吾・直木三十五の内部に、少年のようにナイーブな純情が隠れていたことを物語っている。二人は、心の底に隠し持った少年の純粋さで社会の不合理と矛盾を暴き、これに挑戦し続けたのだ。
日本型のニヒリストには、もう一つ「乞食型」というタイプがある。
この乞食型の文人としてすぐに頭に浮かんでくるのは、辻潤や川崎長太郎などであるが、彼らはどんなに不満があっても、社会を相手に戦いを挑むようなことをしなかった。二人は青年期の入り口で無政府主義や社会主義に関心を持ち、その関係の機関紙やパンフレットを読み、講演会などにも顔を出している。が、実際運動には参加しないでいた。
辻潤は警察で取り調べを受けたとき、「お前は共産主義者だろう」と追求されている。
「いえ、降参主義です」というのが彼の返答だった。
情誼共同体とでもいうべき日本社会のなかで窒息しそうになっていた辻が、心底から望んでいたのは、「一切の義務と責任を放棄して生きる」ことであり、酔生夢死することだった。無抵抗を信条とする辻は、社会を相手に戦うよりも、あっさり降参して浮浪者になり、誰にも縛られずに各地を放浪して暮らすことを望んでいたのであった。
坂口安吾・川崎長太郎・辻潤らは、合理主義者として、前近代的な慣習に縛られ妥協を事としている庶民を黙って眺めていた。彼らは庶民を愛していたのではなかった。民衆の形成する情の世界・痴愚の世界を、理知の目で眺めている限り、そこには愛も憎しみも生まれてこない。無感動な冷たい顔で、ただ黙然とその生態を眺めているだけである。愚かしさに対して人がなし得ることは、その前を黙過することしかないのだ。ニーチェの超人主義に対抗して「低人主義」を唱えた辻潤も、その基調にあるのは大衆蔑視だった。
人は情の世界から理の世界へ、理の世界から慈の世界に進まなければならない。日本型ニヒリストが慈の世界に進む道は果たしてあるだろうか。
つづく