下僕根性からニヒリストへ(5)
ジル・ボルテ・テイラーの右脳は、全存在と「永遠の今」を一挙にとらえて、その総括的な印象を情感の形で彼女に示している。そして、その情感とは、比較するものがないほど深い幸福感だった。
こうした幸福感を体験したものは、意外に多い。一般的にこの体験主体は、大我と言われている。これを仏教では「仏性」、キリスト教では「霊」と言っているし、鈴木大拙にいわせると、これは「日本的霊性」ということになる。
宗教者たちは、至福体験を「わが宗派のもとで修行を積んだものたちだけに与えられる特権」と宣伝している。そして、この体験に到達するには、並々ならぬ努力や苦行が必要だと説く。聖書にも「力を尽くして狭き門より入れ」とある。しかし至福体験への門戸は広く開かれていて、修行を積んだ宗教者よりも、むしろニヒリストにこの状態を体験したものが多いような気がする。
なぜニヒリストが至福状態に到達できるかといえば、彼らが人間社会の全体を冷眼に見ているからなのだ。特定の宗教を信じているものや、独自の価値観を持っているものは、自分とは異なる立場にある他者を敵視し、結果として自分を狭い世界に閉じこめている。けれども、ニヒリストのように何も信じない人間は、目の前の世界をまるごと意識の中に取り込み、対象を差別したり、序列をつけて見るようなことをしない。
幸福度は、無限の空間と時間を、どれだけの範囲まで受容できるかによって決まる。だから、自分の信じる宗教に凝り固まっている篤信者よりも、神も仏も信じないニヒリストの方がより大きな幸福感を味わうことができる。
ニヒリストは、確かに一般の社会人よりも広大な世界を見ている。その限りでは彼らは普通の人間よりも自由で幸福であるが、彼らは、冷眼をもってこの世を見ているから、慈眼をもってこの世界を見ている人間──彼らを「慈者」と呼ぶなら、慈者の幸福度には及ばないのである。
合理主義を基軸にして生きているニヒリストは、普通の社会人を一種の病人と見ている。彼らは、自らも理に反して行動することが多いことを自覚しているから、自分もまた病人と考えている。ニヒリストは自らも病人であることを自覚している病人なのである。
慈者も、また、この世が病人の集まりであり、自分も病人の一人であることを承知している。ニヒリストは、この事実を事実として受け入れているけれども、そのことを肯定できないから、冷たい目で自他を眺めることになる。だが、慈者は、善人と悪人、賢者と愚者が入り交じる現世をそのままで是認し、病人の集合体としての社会の全体を慈眼をもって眺めるのである。
ニヒリストは愚かではないから、できれば自分も慈者のレベルに到達したいと願っている。それがうまく行かないのは、実に単純な理由からだ。彼らが自身を受容できないでいるからなのである。慈者が人間として味わいうる最高の状態=至福状態に到達できるのは、世界の全体を肯定する際に、世界を構成する一分子として自分をも肯定し受容しているからなのだ。自分自身をも最も深いところで是認しているから、最高の幸福感を得ることができるのである。
ところがニヒリストは、自分を許容できないでいる。彼らが現世を冷たい目で眺め、時に鋭く攻撃するのは、彼らが自分自身を冷たい目で眺め、常時、自分に攻撃の矢を向けているからなのだ。脳科学の最近の研究によれば、男性が攻撃的になるのは、男性ホルモンの一部が女性ホルモンに変換する時だという。男性の攻撃性行に、そうした生理的な背景があるとしても、人間一般が現世に対して不寛容になるのは、本人が自分自身に満足できないでいるためなのである。
人は、情の世界から理の世界、理の世界から慈の世界へと進まなければならない。慈の世界とは、全体への愛の世界である。われわれは、この場合、「全体」のなかに自身も入っていることを忘れてはならないのである。