日本人による兵役拒否(2)
トルストイは、生涯、人を殺すなと教えるイエスの言葉に従って生きた。北御門二郎がトルストイから教えられたのも、何があろうと、とにかく人を殺してはならないということだった。殺人はあらゆる信仰の根本原理に反する罪であり、絶対に犯してはならない悪なのである。
だから北御門二郎は、戦争が人を殺すことを目的としている以上、どういう名目の戦争であろうと、これに反対しなければならなかったのである。
彼が反戦意識に徹して、人を殺すより殺されるほうを選ぶという態度にまで突き進んだのは、ハルピンで日本軍が中国の青年を処刑する残虐な写真を見たからだった。彼はその写真を、現地で知り合った日本軍関係者から見せられたのであった。
<あれから半世紀になんなんとする今日も、私はまざまざとあの写真を思い浮べることが出来る。まだ十七、八歳と覚しき、両手を高々と後ろ手に結えられた中国の青年が、地面にごろりと転がされ、その首を藁切りの刃に挟まれて、この世のものならぬ恐怖の表情を浮べている。
あの表情を、私は死んでも忘れはしないであろう。しかもすぐその傍らには、すでに頸から頬にかけて、ぱくりと刃物で切り裂かれて、死体となって横たわっているもう一人の青年の姿があり、それを日本の軍人達が取り巻いて眺めている(「ある徴兵拒否者の歩み」)>
「藁切り」というのは、「押し切り」ともいわれ、事務室などで手作業で紙の束を裁断するときに使う器具を大きくしたもので、昔は大抵の農家に具えられていた。その写真を目にして北御門二郎はくらくらとなったのだ。
「これは、ひどい。あんまりだ」
彼は目眩(めまい)に襲われ、吐き気を感じた。全身の血がたぎるような気がして、その場を離れた。彼は大声で泣きたかった。こんな非道なことを許している人類全体に抗議をしたかった。
北御門二郎は帰国後の日記に、こんな話も書き込んでいる。
<門田上等兵(湯前で菓子屋をしていた、私より二・三歳上の男)の従軍談!
殺人、強盗、放火、強姦、罪として犯さざるなき戦争の楽屋話だった。アツチラやジンギスカンの裔は、今の世にも相変らず暴威をほしいままにしている。而も毒ガスや重爆撃機を備えて。
何よりも私を驚かし悲しませたものは、自らも参加した支那避難民虐殺の光景を物語る時の、話手のケロリとした顔付きだった。「子供なんか突くより銃の台尻で殴りつける方がよっぽど早道だよ。私もあの時は七人殺した。額の所を突くつもりが、頬をかすったりしてね。なかには押えつけて、鶏のように首を掻き切ったりしていた奴もいたよ!」
その他歩兵は銃剣術のおかげで刺殺し方が上手だとか、婦女強姦の時の情景だとか、銃殺される支那人の倒れる様子とか、支那娘子軍の遺棄死体への言語道断な凌辱とか・酒保(軍隊内の売店)でパンやウドンを売るように番号をつけて兵隊共にあてがってある慰安婦達とか!
これら全てが、あたかも自分の自慢の骨董品を人に見せる時のような得意そうな顔付きで語られた>
トルストイの著書を念頭に置いて日中戦争に突入した日本の動向を眺めていると、見るに耐えないことばかりだった。軍部に対する彼の怒りは、そういう軍の蛮行を許している日本人全体への怒りに発展し、キリストのように死にたいという彼の絶望的な願望に拍車をかけていった。キリストは信仰心を失った民衆に警鐘を鳴らすため、自らを十字架に架けている。自分も国家への抗議として、兵役を拒否し、処刑されて死ぬべきなのだ。
彼は日本国と対決する方法として兵役拒否を選び、逮捕されたら査問の席で自分の意見を堂々と述べる積もりだった。兵役を拒めば死刑になるかもしれない。それは北御門の望むところだった。が、絞首刑だけはイヤだなと思った。
兵役拒否の第一歩は、徴兵検査を拒否することからはじまる。
日本国との対決の時を急いだ彼は、当時大学生に与えられていた徴兵延期願いをわざと提出しなかった。そして、徴兵検査の日が近づくと旅に出て、検査会場に予定されている町から離れてしまった。このため、いち早く彼の失踪を知った故郷の湯前では大騒ぎになり、役場や警察から入れ替わり立ち替わり父のところに人がきて、早く当人を捜し出すようにと矢の催促をする。とうとう北御門が自殺しているかも知れないというので、消防団による山狩りまで行われた。そこで彼は、ようやく迎えにきた母と一緒に実家に戻ることになった。
実家に戻ると、父が息子の機嫌を取るように優しく話しかけた。
「それじゃ、明日、検査を受けに行ってくれるね」
北御門は、思わず、「いや」と言っていた。
その夜遅く、彼が二階で一人で寝ていると、家を飛び出して飲み慣れぬ酒を飲んできた父が、目を光らせて帰宅した。
「親があれほど頭を下げて頼むのに、あんな返事をする」
そういって、父が阿修羅のように荒れ狂う物音が二階に聞えてきた。窓硝子が割れ、障子が裂ける音が続く。それでも彼は動かなかった。(父よ、そなたの次男坊には、肉体的生命以上に大事なものがある、それに従わなければならないのです)と北御門は心の中で父に語りかけていた。
北御門は、とにかく徴兵検査の会場に顔を出すことになる。すると、ことは変にすらすらと運ぶのである。会場にはリーダー格の役人として武官と文官が来ていたが、二人とも議論を吹っかけようとする彼に取り合わず、「君は兵役には無関係にしておくから、あそこで待っていたまえ」といって兵役を免除してくれた。あらかじめ事情を聞かされていた徴兵官は、彼を精神異常者として処理したのだ。
兵役を免除された北御門は、大学を退学して念願通り郷里に戻って農民になっている。こういう彼の経歴を見ると、軍上層部は軍隊に入ってから軍務を拒む兵士に対しては厳しい態度で臨んだが、徴兵検査の段階で兵役拒否の姿勢を示す青年には、意外に寛容な態度で接したらしい。危険思想の持ち主を兵隊にして、その思想が隊内に伝播するのを恐れたらしいのだ。
愚老は戦争末期に最下級の兵卒として軍隊生活を数ヶ月体験した。そこで知ったことは、軍隊内部に「低きに倣(なら)う」流れがあり、これが小隊や分隊の空気を毒していることだった。構成員10名内外の分隊や3,40名の小隊には、普通の兵卒が集まっている。彼らは、これまで社会人として、あるいは学生として、尋常に暮らしてきた人間たちなのである。
それが戦場に出たら、「押し切り」で捕虜の首を切り落としたり、民家に押し入って強盗や強姦を働くようになる。それは一般の兵隊が、隊内に何人かいる低いレベルの兵隊の真似をして非人間的な行動に走るからなのだ。
何故そうなるかと言えば、危険思想の持ち主が「治安維持法」に引っかかって投獄されたり、北御門のように入隊以前に徴兵官によって排除されたりして、低きに倣う流れを阻止する人間が乏しくなっているためだ。そして、ひとたび「低きに倣う」流れが出来てしまうと、「明哲保身」という言葉があるように、それまで隊内にいた良心的分子は、ぴたりと口をつぐんでしまう。この雛形は、いじめが横行する学級にも見られる通りなのである。