女流の時代(1)
いつものように、芥川賞を受賞した作品を掲載している「文藝春秋」を買ってきた。だが、肝心の受賞作品を読む前に、同誌に載っていた「宇宙が始まる前は何があったんですか」という対談記事の方に目がいって、それを読むことに没頭してしまった。そして、これを読了するや、今度は久しく眠っていたSFに対する興味が目覚め、手もとにあった「SFマガジン」特大号(「海外SF篇」)を読み始めたのだ。
そんなことに時間を取られ、今回の芥川賞受賞作「穴」を読んだのは、つい昨日のことだった。
このところ芥川賞を獲得するのは、男性より女流が目立っている。賞の選考委員も女流が多くなり、選考後に感想を書いている選者9人のうち4人までが女性なのだ。以前は芥川賞の選考委員も受賞者もすべて男性ばかりという時代が長く続いていたが、この頃は打ってかわって女流優位の時代になったのである。
最近の男性受賞者には、風変わりな経歴を持った者が多い。けれども、女性受賞者は、みな、破綻のない日常を送っている「健全な社会人」が多く、林芙美子のような貧しい生活を送ってきた女流はほとんどいない。平安時代の女流文学者が、宮廷に仕える女官だったように、現代の才女たちは裕福な家庭の主婦だったり、良家の子女だったりする。皆、揃って苦労知らずの恵まれた境遇でそだったのだ。今回の受賞者の小山田浩子がどんな経歴の女性か明らかにされていないけれども、おそらく恵まれた家庭で育った女性に違いあるまい。
「穴」のヒロインは、サラリーマンの妻で、夫が故郷の近くに転勤することになったので、夫の実家に隣接する一戸建て住宅に引っ越すことになった。そして、姑や義祖父と家族同様に暮らし、近所に住む夫人たちとも親しくなる。作品は、新居でのヒロインの日常を生活記録を綴るかのように淡々と表現して行くのだ。ここまでは著者の練達した描写力が発揮されていて面白く読めるのだが、やがて叙述のなかに謎めいた描写が次々に現れて来ると、読者は困惑しはじめる。
例えば、息子夫婦を親切に迎えてくれた姑が、生活に困っているはずがないのに嫁であるヒロインの金を奪い取るようなことをする。と思うと、日課のように庭の樹木や植物にホースで水を撒いていた義祖父が、土砂降りの雨の日にも庭に出てホースによる水撒きをはじめる。母屋の奥の物置に仕事をしないでぶらぶらしている中年の男が住んでいて、自分はあんたの旦那の義兄だと自己紹介をするのだ。
また、彼女は近くの河畔を歩いていて、犬でもないし狸でもない、これまで一度も見たことのない奇妙な動物を見かける。その動物と関係があるのか、河川敷には至る所に穴があって、ヒロインはそこに落ち込んでしまう。その穴は、人の胸ほどの深さの縦穴だったが、独力ではどうしても抜け出ることが出来ず、たまたま通りかかった近所の夫人に引っ張り上げて貰って、ようやく穴から出ることに成功する。
一体、作者は、これらの不条理な現象を次々に羅列して行くことによって、何を暗示しようとしているのだろうか・・・・・それが読者には全くわからないのである。これまで目にしていた世界が、狂った眼鏡をかけて見るように歪んだものになっているのに、その理由が分からないのだ。
こういう作品を読むと、小説を読み慣れた読者は深読みをして深刻な傑作だと思いこんだりする。カフカの不条理劇には、確かに暗喩が隠されていた。けれども、残念ながら「穴」にはそうしたものが全く認められないのである。義祖父が雨の日にホースで水を撒くのは、認知症になっているせいだとしたら、ヒロインが現実を歪んだ形で眺めるのも、若年性認知症のためだというのだろうか。それが原因だと言うことにすれば、分かりにくかったこの作品も一挙に解明できる。が、まさか作者は、そんな人を小馬鹿にしたようなことを考えて作品を書いたはずはない。
愚老はこれまで芥川賞受賞作品をいくつもよんできたが、作意不明のこうした作品を読んだのははじめてである。こうした作品を受賞作に選んだ選考委員たちの気持ちも理解できない。
前途有為の女流作家に妄言を連ねたついでに、安倍首相ブレーンである長谷川三千子教授にも妄言を呈したいが、いかに憎まれ者の愚老といえども、一度に二人の女性をこき下ろしたら罰が当たりそうなので、今回はこれだけにしておきたい。愚老はこれでもフェミニストなのである。
(つづく)