二・二六事件の背景
あれは小学校四年生頃のことだったと思うけれども、二月の二六日の夜、父が遅く帰ってきた。家族は夕食を済ませて、皆で炬燵にあたっていた。
「どうしたの? 学校で何かあった?」
と母が尋ねたのは、父が変に暗い顔をしていたからだった。父は松本市の小学校に勤める教員だったから、母は学校に何か事故でもあったのではないかと想像したようだった。
「いや」と否定してから、父は暗澹たる表情のままで独語するように言った、「東京で革命が起こったらしいな」
・・・・史実によれば、この日の早暁、皇道派の将校に率いられた数百の兵士が首相官邸を始め、陸軍および政界トップの邸宅を襲撃し、首都を麻痺状態におとしいれていたのだった。午後になって、その情報が父の勤務する小学校にも流れてきたから教員らは騒然となり、続報を求めて一同はその時刻まで学校に残っていたのであった。だが、その後、新しい情報は得られず、今夜はひとまず解散しようということになって、父は家に戻ってきたのであった。
子供の頃のこうした記憶があったから、二・二六事件に関する資料をある程度集め、決起した兵士らが高橋是清蔵相の遺体に加えたという無惨な行為も知っていた。だが、先日、NHKのBSでこの事件に関するテレビを見ていて少しばかり悟るところがあったのである。
それは、陸軍内部にあった「統制派と皇道派の対立」という図式は、明治期以降今日に至るまで政治の世界で連綿と続いて来ているという事実についてであった。
皇道派は、主として若い尉官クラスの将校によって形成されていた。彼らは軍の内部にあって兵隊と直接接触する小隊長だったから、部下たちがどういう階層に属するか十分に知っていた。その大部分は、農村にあっては小作人であり、都市にあってはしがない労働者だった。彼らは皆、軍隊に入るまでは、一家にとって無くてはならない働き手だったのである。そして、彼らは、家族たちから兵役を済ませて早く家に帰って家計を助けてくれることを期待されている男たちだった。
だから、皇道派の将校たちは、彼らを何時までも軍隊に縛り付けておくことになる戦争には反対だった。まして、彼らを戦場に引っ張り出して戦死させでもしたら、残された家族を崩壊させることになる。だから、彼らは総じて平和主義者だったのであり、軍が中国へ進出することに反対していたのである。
彼らは天皇の英明を覆い隠している君側の奸を除いて、一君万民の社会を実現しようとしていた。その政治的立場を要約すれば、「一国社会主義」ということになるかも知れない。これに対抗する統制派は主として参謀本部に籍を置く佐官級の軍エリートであり、仮想敵であるソ連を制圧するための軍事予算の増額を政府に求めていた。
冷徹な統制派は、そのために皇道派が排撃してやまない既成勢力と手を結び、彼らを利用しようとしていた。それで彼らは岸信介など官僚の中の切れ者の取り込みをはかり、中国大陸への進出を望んでいる企業経営者らと親密な関係を保っていた。
こういう状況は、実は国権派と民権派が対抗していた明治政界の勢力関係を引き継ぐものだったのである。「富国強兵」体制を実現して、東アジアに進出することを狙う国権派は日清戦争に勝利した後も、軍事費の増額を要求し続けた。これに対して、民権派の政治家は、「民力休養」を唱えて国防予算を抑制しようとしていた。
国権派は藩閥出身の役人を手足のように動かし、財閥と手を結んだ点などで、軍内部統制派の先行者だったし、自由民権の旗のもとで特権階層に対抗した民権派は、皇道派の先行者だった。そして、国権派と民権派の対立構造は、明治期以来、一貫して国権派が優位に立っていた。大正デモクラシーの時代になると、短期間、両者は、ほぼ、互角に近い関係になったものの、世界恐慌の波に洗われるや否や、日本は再び国権派優位の形勢に戻り、日中戦争・太平洋戦争へと突き進むことになった。
敗戦という痛手を受けたにもかかわらず、国家主義勢力と名前を変えた国権派の勢力は衰えることがなかった。自・社対立の情勢、そして自・民対立の形勢は一瞬のうちに終わり、国権派の牙城である自民党による一党支配の体制は延々と今日まで続いてきている。そして、今や日本陸軍統制派の体質を色濃く受け継ぐ安倍晋三政権が出現するに及んで、国家主義的風潮は強くなる一方なのだ。
日本人は、なぜ、ダーティーな国家主義と縁が切れないのだろうか。問題は、ここにあるのである。