甘口辛口

朝日新聞が「心」の連載を始める(7)

2014/4/26(土) 午前 8:27
朝日新聞「心」(7)

奥さんは、外出する前に自室にこもり、鏡台に向かって化粧をする。同居を始めた頃、奥さんは茶の間との境の襖を閉めて、化粧する自分を隠していたのに、今では襖を開けたままで、時には両肌脱ぎの格好でお白粉をつけている。「私」も遠慮がなくなっていた。奥さんの部屋を覗き込んで声をかけるのである。
「化粧なんてしなくても、十分にきれいなんだけどな」

奥さんは、「私」の方を振り返り、「もう、お婆さんなんだからダメなのよ。せめておつくりでもしないと」といって又鏡に顔を向ける。実際、奥さんは化粧などしなくても美しかったのだ。その肌は、ねっとりと白く、その粘質の白が思わず男たちの目をひきつけるのである。

「私」は、これまで足を踏み入れたことのない奥さんの部屋に入り込んで、経机の上にある煎餅などをつまみながら、針仕事をする奥さんと話し込むことが増えていた。ある日、「私」は床の間に立てかけてある琴に目をやって、一度、琴を弾いてくれるように頼んだ。

「イヤよ。下手なんだもの」
「いいじゃないですか、上手か下手か、一度聞いておかないと、こっちも落ち着かないんだ」
「勘弁して。もうずっと弾いていないのよ」

そんなふうに言い争ったりしていると、いよいよ親しみが増してくる。「私」は立ち上がって、琴を奥さんの前に置いた。すると奥さんは、「あなたって人は、強引なんだから」と苦情を言いつつも、裁縫箱の中から象牙の爪を取りだして弾き始める。確かに下手だったが、真剣な表情で指を動かす奥さんが、ひどく可愛らしく見えた。

奥さんは短い曲を弾き終わると、急いで琴を片付けてしまった。そして、「どう? 下手だったでしょう」とはにかんだような顔で尋ねる。

「いや、ぽろん、ぽろんと琴が鳴るところは、風情があってよかった」
「ひどい人。もう絶対に琴を弾かないから」

奥さんの部屋で、口喧嘩のようなことをする日もあったが、二人が繰り返し話し合ったのは、今の家を貸家に出して自分たちは市内の別の場所に引っ越そうかということだった。近所の目を気にして奥さんは、「私」と並んで外に出ないようにしていたが、そんな気遣いをしなければならないことに次第に嫌気を感じはじめていたのだ。

「先生」が亡くなったとき、子供のない奥さんは.周囲からいづれ再婚するものと見られていた。市外に住んでいる女学校時代の友人が、奥さんに対して再婚して相手の家に移るようだったら、今の家を貸すか売るかしてほしいと言って来ているという。

その日も、二人は並んで庭を眺めながら、この件をめぐって、堂々巡りの意見を交わしていた。日曜の午後で、二人の間には、爪楊枝を刺した羊羹が小皿に乗せて置かれている。

「昨日は、新宿の方を探してきたわ。あの辺は引っ越すにはいいところよ」
「しかし、別のところに移っても、同じじゃないかな。やっぱり、何んだ、かんだと噂されるよ」
「だから言っているでしょう、養子縁組を解消して、お互いにただの男と女の関係になればいいのよ。そして、あなたは間借り人ということにすれば、どこからも文句は出ないわ」
「僕は亡き『先生』に誓ったんだ。養子になって奥さんを何時までも守ります、って」

「私」が養子になるときに、心の中で、そう先生に誓ったのは嘘ではなかった。だが、それだけではなかった。養子にならなかったら、奥さんが離れていってしまうような気がしたのだ。そのことも打ち明けると、奥さんは「私」の方に向き直り、強い目で「私」を凝視した。そして両手で「私」の手を固く握りしめた。

「バカねえ、私があなたを離すと思っていたの? あなたが養子縁組を変えたくないというなら、私はこのままでもいいのよ。でも、約束して、私たち何があっても死ぬまで添い遂げるってこと」

「私」は奥さんと死ぬまで生活を共にする心算でいたが、「添い遂げる」という言葉にこだわった。これは夫婦の間で使われる言葉ではないか。すると、奥さんは二人の関係を法律上は母子ということにしておいて、実質は夫婦関係にしたいのだろうか。

数ヶ月すると、暑い夏になり、二人の部屋にはそれぞれ蚊帳が釣られることになった。蚊帳を釣り終わったあとで、奥さんが提案した。

「ねえ、襖を閉めてしまうと暑苦しいから、開けておかない?」

「そうだね」と応じながら、「私」はどきんとした。あの会話以来、「私」は密かに「添い遂げる」という奥さんの言葉にこだわり続けていたのだ。奥さんは、腹を決めてこの家に留まり、自分と夫婦の関係になろうとしているのではないか。奥さんは女らしく一応近所の噂を気にしているけれども、いざとなったら覚悟を決めて、まわりが何と言おうと思ったように行動する強さを持っている。

奥さんの提案の通りに襖を開けはなったけれども、何と言うこともなかった。寝る前に奥さんは寝間着に着替える。茶の間の電灯は光が弱いので、蚊帳の向こうで着替えをする奥さんはほとんど見えない。奥さんが蚊帳の中に入って横になっても、「私」の方も蚊帳越しに見ているから、奥さんの布団が盛り上がっているのが分かるだけなのだ。

十日ほどしたある夜、「私」がふと目覚めると奥さんの蚊帳に動きがあり、不浄に立つらしい奥さんが蚊帳をもたげて外に出てきた。蚊帳から踏み出す時、寝間着の裾が乱れて、ねっとりとした太ももがのぞいた。

「私」は茶の間を出て行った奥さんを見送ってから、夢遊病者のように奥さんの部屋に入り込んでいた。そして、何も考えることなく襖の陰に隠れて、奥さんの帰りを待った。

不浄から戻ってきた奥さんは「私」を認めて、ぎょっとして一歩下がった。それを追って「私」も一歩進み、相手を抱きしめた。

「いや」と奥さんが低い声で言った。

「私」は何と言っていいか分からなかった。それで、力を込めて抱きしめにかかると、奥さんは腕を突っ張って、今度は、「駄目――」と言った。「私」は混乱して言葉を失った。そして、うつけたように奥さんを抱いたままでいた。こんな筈ではなかったという思いが、ちらっと頭をよぎった。

結末は、あっけなかった。奥さんは、「私」を押しのけて、無言で蚊帳の中に入り、「私」はぼんやりとそれを見送ってから、自分の蚊帳に戻ったのである。

(つづく)