朝日新聞が「心」の (6)
奥さんがそんな見方をしているとは、「私」は少しも知らないでいた。「私」は反論した。
「Kさんという人は男らしい人だったかも知れないが、僕は違いますよ。それに『先生』が女性的だというのは――」
「あなたは、私を好いているでしょ。いいえ、隠さなくても、いいの。私には分かっているんだから」といって、「私」を正面から見つめた、「あなたが、ご家族の反対や世間の思惑を無視して、私の養子になってくれたのもそのためじゃないの。あなたは将来結婚しないで15歳も年上の私と、死ぬまで添い遂げる積もりでいるんでしょ。 違う?」
「――」
「でも、主人はそうではなかった。結婚する以前にためらっていたし、一緒になってからも自分の心の中の問題にかまけて、私の愛に応えてくれなかった。あなたは、主人と私が寝室を別にしていたことを知っているかしら。あの人は、罪の意識から私を数えるほどしか抱いてくれなかったのよ」
「そんな・・・・『先生』は、静が、静がといつも奥さんのことを気遣っていたんだ」
「それは私を弱いものだと思っていたからよ。対等の愛情ではなかったわ」
「しかし・・・・」
「あの人が、思いやりのある優しい人だったことは認める。でも私のような女には、それだけでは満足できないの」
話題が夫婦間の内情に触れるものになったので、「私」は沈黙した。そでまで受け身になっていた奥さんは頬を紅潮させ、目をきらきら輝かせて挑むように語り継ぐのだ。だが、ひとしきり憑かれたように話したと思うと、やがて急に羞恥に襲われたように、それまでの言葉を打ち消した。
「私、またバカなことをしゃべってしまって・・・・・みんな忘れて頂戴」
その夜は、そのまま各自の部屋に戻って就寝したが、翌朝、顔を合わせたとき、「私」は二人の関係が変わっていることに気がつく。
「私」は、Kの手記を読んで以来、「先生」を死に追いやった張本人として奥さんに含むところがあり、奥さんは奥さんで、「先生」を神格化している「私」に不満を抱いていた。前夜、互いの胸につかえていた不満を吐き出し合ったために、二人はそれぞれ本当の気持ちを正直に出せるようになったのだ。
これまで奥さんは戸籍上の「母」であることを示そうとして「私」に明るく、そして馴れ馴れしく振る舞っていたが、そういう無理なことをしなくなった。「私」は自ら設定した母子関係という枠に縛られて、これまで奥さんを何と呼ぶべきか迷っていたが、一つ家の中に二人だけで暮らしているのだから、改めて相手に呼称をつけて呼ぶ必要などないのだった。
風呂にはいるとき、「私」が、「石鹸はどこ?」と聞けば、奥さんは、「棚の上」とだけ答える。奥さんが朝「私」を起こすときに、襖を開けて首だけ出し、「早く起きなさいよ」と催促すると、「私」は、「うん、もう少し」と答えるのだ。「私」と奥さんは古馴染みの夫婦のような遠慮のない関係になっていた。
二人の変化に近所の人々も目ざとく気づいて、噂話に花を咲かせていた。そのことを奥さんは、同じ近所仲間の親しくしている夫人から教えて貰ったのである。
「あの事件で、あなた方は世間から注目されるようになったの。みんなは、お二人の様子を事あれかしと見守っていたのよ。世間じゃ、あなた方はもう夫婦になっていると思っているわよ」
「ひどいわね」
「養子縁組というのが悪かったわね。いっそ、最初から夫婦として入籍しておけばよかったのよ」
その夜の食卓で、奥さんは「私」に向かって憤懣をぶっつけた。
「バカにしているわ。あの人ったら、近所の噂を教えてくれると言いながら、私たちが夫婦になっていると決めてかかっているんだもの」
「私」は奥さんを慰める。
「世間というものは、そういうものですよ。放っておけばいいんだ」
しかし、何日かすると、奥さんは又「私」に訴える。
「今日私が、佃煮屋の前を通ったら、近所のおかみさんたちが三、四人立ち話をしていて、私を見ると急に話を止めてさっと散っていったわ。あれは、私たちのことを話していたんだわ」
「仕方がないよ。人の口に戸は立てられないというからね」
口をとがらせて訴える奥さんを、「私」はまあまあといってなだめる。
暫くすると、奥さんが笑い出した。「どうかしたした?」と「私」が尋ねると、
「思い出したの。私が子供の頃、死んだ父が兵営から帰ってくると、母が待っていたように隣近所への不満をぶっつけるのよ。すると、父がまあまあといってなだめるの。私たちそれと同じことをしている。やっぱり、あなたを養子にするんじゃなかったわね。あなたと結婚すべきだったわ」
「私」にとって意外だったのは、「先生」への奥さんの愛が予想していたより淡いらしいことだった。「先生」を深く敬愛していた「私」は、奥さんも同じ気持ちでいると信じていた。だから、奥さんとは、死んだ「先生」に対する愛情で結ばれた人間同士として、二人で「先生」の思い出を抱いて慎ましく生きて行けると思っていたのである。
けれども奥さんは亡き夫の思い出を抱いて独身を守り、死ぬまで先生に貞節を尽くすような女性ではなかった。「先生」と20年あまり一緒に暮らしながら、今では「先生」よりもKへの哀惜の念を深くしているらしいのだ。「私」は「先生」の人格を理解していない奥さんに失望しながら、いつの間にかその影響を受けて「先生」を畏敬する気持ちを少しずつ失い始めていた。
「私」の内部にあった「先生」のイメージが軽くなるにつれて、逆比例して奥さんへの執着が増して行くのである。奥さんには、いろいろ欠点があった。一人娘として育てられたわがままな気質をそっくり残していた。でも、「私」には、それらが次第に人間らしい魅力として映るようになり、「安心させてくれる男性」を求める奥さんに応えたいという気持ちが強くなった。つまり、「私」は奥さんを女として愛し始めたのである。
(つづく)