甘口辛口

朝日新聞が「心」の連載を始める(9)

2014/4/29(火) 午前 6:22
朝日新聞が「心」の連載を始める(9)

「私」が目覚めたのは、隔離病舎の一室だった。偶然通りかかった漁船に拾われた「私」は、伝染病患者を隔離しておくための村営の病舎に収容されたのだった。

そこで村の医者から葡萄糖の注射などの手当を受けた。

役場の吏員から世話をされている間に、海岸に残して置いた衣類や財布が発見され、海水浴をしているうちに沖に流されたという「私」の弁解が立証される形になった。役場の吏員から、家族に知らせるから住所を教えて欲しいと要求されたが、「私」には答えられなかった。自分が危うく救出されたことを、奥さんに知られたくなかったし、実家の家族にも知られたくなかったのだ。

吏員から「私」が住所を教えようとしないことを知らされて、役場の助役がやってきた。村長を補佐する助役は、60を過ぎていると思われる穏やかな老人で、暫く「私」と話をしているうちに「私」がどういう人間か見当をつけたらしかった。藤村操が「巌頭の感」を遺して自殺してから、学生の自殺が世の注目をひくようになっていたから、「私」も自死を企てた学生の一人だと察知したのである。

「君が元気になるまでは、村で面倒を見てやるが、何時までもというわけにはいかないぞ。君は家に戻りたくないと言っているらしいけれども、ここを出たら君は直ぐにも自分で食い扶持を稼がなければならない。仕事のアテはあるのかね?」と助役に問われて、「私」が差し当たって仕事はないが、何とかなると思うと答えると、相手は首を振った。世の中は、そんなに甘いものではないというのだ。

彼は、哀れむような表情で「私」を眺めていたが、やがてこう言い出した。

「村の分教場で子供たちを教えてみる気はないかね?」

今まで分教場で子供たちを教えていた老齢の教師が、後任の教師が見つかり次第、退職したい言って来ているというのだ。「私」が承知すると、話はトントン拍子に進み、半月後に隔離病舎を出て、分教場から歩いて10分の距離にある教員住宅に移ることになった。

「私」は教員住宅に移るまでの間、ガランとした隔離病舎に一人残された。顔を合わせるのは、三度の食事を運んできてくれる役場の用務員だけだった。「私」は、考えるともなく、これまでのことを考えていた。

自分は死を覚悟して海に入りながら、海水温度の変わり目にぶつかって、目が覚めたように変心してしまったのであった。そして必死になって陸に戻ろうとした。そのとき頭にあったのは、奥さんにもう一度会いたいということだった。思い切って言ってしまえば、「私」にとって先生は死の象徴であり、奥さんは生の象徴だったのである。

「私」は大学を卒業する時点になっても、まだ進路を決めかねていた。本当は、「私」は「実社会」なるものに出たくなかったのだ。だから、求職運動もろくにしなかったし、さりとて郷里に帰る気持ちもなかった。そんなときに、鎌倉で外人と一緒に海へ入っていく先生を見てハッとしたのだった。先生が生きることに何の執着も持っていない人間のように見えたのだ。海水浴客でにぎわう海岸を抜けて海に入る先生が、まるで平然と死の世界に踏み入っていく哲人のように見えたのであった。

先生の私宅を訪ねるようになると、先生は何度も、「どうして私のような人間を訪ねてくるのか」と尋ね、「私は淋しい人間ですよ」と繰り返した。先生は誰にも理解できない深くて厳しい世界を一人でじっと見つめているように思えた。先生に接していると、自分もその厳しい世界に触れてみたいという気になった。しかし、先生の見ていたのは、やはり、鎌倉の海岸で感じ取ったように死の世界だったのだ。

先生の遺書を読んで、「私」は自分の推測が当たっていたことに驚いた。先生が見つめていたのは自分自身を葬り去る決意についてであり、確かに死の世界についてだったのである。そして、隔離病舎にいる今になって身にしみるのは、先生の遺書の持つ一種不可思議な魔力だった。あれを読み終わったあとで「私」は、自分もおのれの罪を精算するために自死すべきだという衝動に駆られた。あの時点では、「私」にはこれといった罪があったわけではなかったのに、自分も先生のあとを追って死ぬべきだと考えてしまったのである。先生の遺書は、「私」を自殺に追いやる時限爆弾の役割を果たしたのだった。

「私」が死への旅に踏み出した途端に、もう一度奥さんにあいたいと思ったのは、奥さんが「生」の象徴だったからだ。「私」は先生と触れ合ってから、魔に取り憑かれたように死について考え始めたが、奥さんは先生と十年余も起居を共にしながら、その影響を受けることなく明るく生きていた。その点で奥さんは「私」などより遙かに強い人間だったのである。

助役と約束した日が来て、教員住宅に移ってみたら、家はかなり傷んでいた。台所・便所・風呂場の他に6畳間と4畳半の二間があったが、4畳半の部屋は雨漏りがするらしく、畳がふやけてぼろぼろになっていた。検分に来た助役は、「これは、ひどいな」と顔をしかめた。

「大工を入れて修理しなければならんが、役場も今のところ火の車でな。そのうちに何とかするから、まあ、当分の間、ここで我慢していてくれ」

自分を一度死んだものと考えることにしていた「私」は、これまで務めていた役所に退職届けを出すこともなく放っておいた。役所は無断欠勤を理由に、「私」を馘首してくれるだろう。奥さんにも、連絡しなかった。奥さんには、自分のような人間のことは早く忘れて、新しい気持で生きて欲しかったのだ。

分教場は、生徒数16名の複式学級で、一年生から六年生までが同じ教室で勉強していた。「私」は、自炊をしながら毎日学校に通った。自分が小学校の教師として相応しい人間かどうか分からなかったが、生徒たちや父母の受けもまずまずで、これなら何とかこの村でやって行けそうだった。

その年も終わり、翌年の新学期が始まる前に助役がやってきた。

「長いこと待たせたが、ようやく予算が取れてな、教員住宅を修繕することになったよ。工事が済むまで、君は学校の用務室にでも寝起きしていてくれんか。工事は、4,5日で終わる予定だから」

言われるままに学校の用務室に移り、校庭のまわりの満開の桜を眺めた。自分は毎年この桜を眺めながら、分校の教師として老いて行くだろうと思った。後悔はなかった。

(つづく)