甘口辛口

朝日新聞が「心」の連載を始める(10)

2014/4/30(水) 午後 8:43
朝日新聞が「心」の連載を始める(10)

分校の用務員室で過ごすのは、4,5日でいいということだったが、教員住宅の補修工事が終わったという連絡が役場から届いたのは、あれから10日後のことだった。その日の授業を済ませて、夕刻、教員住宅に戻ってみると雨漏りのしていた屋根は葺き直され、庭先には物干し用の丈夫な柱が二本立てられていた。そこには真新しい物干し竿が架けてある。これなら、洗濯物だけでなく、布団を干すことも出来そうだった。

玄関の戸を開けて中に入った「私」は、思わずその場に棒立ちになってしまった。「お帰りなさい」といって、台所から奥さんが出てきたのだ。台所からは、夕餉を準備する匂いが流れてきた。

「私」は思わず、呟いていた。

「どうして───」

そういう「私」を見て、奥さんは先生の家にいた頃と全く変わらない表情でいうのだ。

「何時までも、そんなところに立っていないで、早く上がってきなさいよ」

奥さんは、「私」の手にしていた風呂敷包みを奪い取るようにして、8畳の茶の間に移動する。そこには先生の家で見慣れた丸いちゃぶ台があり、鴨居には勤めから帰宅した「私」が着替える着物が掛けてある。

「私」が洋服を脱いで、着物に着替えながら、隣の4畳半を覗くと新しい畳が敷いてあり、そこに、これも見慣れた奥さんのタンスが運び込んであった。振り返って、お茶をいれてくれている奥さんに尋ねる。

「何時から、ここに来ているんですか?」
「二日前から」

「一体、どうして・・・・」と「私」は再び呟いた。

お茶をいれ終わった奥さんは、台所の方に取って返しながら、何でもないことのようにいうのだ、「世田谷の家は売ってしまったから、もう私の帰るところはないの。とにかく、いろいろあったのよ」

詳しい話は夕飯の後で聞くことが出来た。この時、奥さんが話してくれたことに加え、その後になって知ったことを合わせて説明すれば、奥さんが突如「私」の前に出現した背景は次のようなことであった。

──度胸が据わっている奥さんは、旅に出たきりで一ヶ月たっても帰ってこない「私」のことをそれほど心配していなかった。だが、そのことを問題にしたのは、「私」の実家の母や兄だった。そもそも、彼らは折角大学まで出してやった次男が、東京で暮らす奥さんの養子になることについて当初から反対だったのである。養子に出すとしたら、前々から養子に欲しいと言ってきている村内の有力者のところにしたかったのだ。

だから、実家では「私」が家を出たまま一ヶ月も帰らず、奥さんもその消息を掴めないでいると知って、「私」と奥さんの関係が悪化していると判断した。それで「私」たち二人の関係を引き裂きにかかったのである。「私」の兄は、上京して奥さんに会い、弟の行方について自分たちも探して見る、もし弟の居場所を突き止めて、その気持ちが明らかになったら奥さんとの養子縁組関係を破棄させて弟の身柄を実家に引き取るつもりだからその積もりでいて貰いたいと宣告した。兄は田舎にいる弟の友達らに問い合わせれば、「私」の消息は簡単に掴めると楽観していたのだ。

奥さんが真剣になって「私」を探し始めたのは、それからだった。奥さんは信玄袋の中から先生の遺書を見つけ、それを読んで、直感的に「私」が九十九里浜方面に出かけたのではないかと推測して、探偵社に捜索を依頼する一方、房総半島一帯の警察署と村役場に捜索依頼の手紙を出したのだった。

すると、去年の12月になってF村の役場からお役所言葉でしたためられた手紙が飛び込んで来たのだ。

<お探しの男性は、本年の8月水泳中に潮に流され溺死しそうになった青年と思われます。彼は現在当村の分校教師として勤務中であるが、複雑な家庭事情があるらしく、家には戻りたくないとの意志を表明しています。従って、本人を連れ戻すに際には、くれぐれも慎重に処置されるようにお願いします>

読み終わってから、奥さんの頭に焼き付いたのは、「家には戻りたくないとの意志を表明している」という一節だった。奥さんは自身に対する「私」の愛情を確信していた。襖の陰に隠れていた「私」にいきなり抱かれた時、拒んでしまったのも、「私」を嫌っていたからではなかった。奥さんは「私」に抱かれることを待ち望んでいて、わざと両肌を見せて鏡台に向かったりしていたのだ。

奥さんの話を聞いているうちに、「私」にも相手の気持ちが次第に理解されてきた。

<奥さんは、だだ、優しく抱いて欲しかったのだ。もっと言えば、彼女は義理の仲とはいえ、母親なのだから、それに相応しい敬意、そして、ためらいをもって抱いて貰いたかったのだろう。幼い頃から、一人娘として大事にされてきた奥さんには、自分を高貴な女性として扱って欲しいという「女王願望」が潜んでいるのだ>

奥さんは、Kが「ファウスト」のなかに書き込んだ英文の手記の内容について知らされ、そして死んだ夫の遺書を読み、自分の不用意な行動によって彼らをどれだけ傷つけていたか悟ったのであった。そこへ今度は義理の息子を危うく海で遭難死させるところまで追いつめていたことを知ったのである。

「私」は知らないでいたが、奥さんは今日までに何度となく村を訪ねていた。村の宿屋に泊まり、その二階の窓から通勤する「私」を見ていたこともあれば、分校の桜の木に隠れて校庭で生徒に体操をさせている「私」を覗いていたこともある。そして教員住宅の近所に住む女性に、「私」のことをあれこれ質問して、役場の助役が息子の面倒を見ていることを知ったのだった。

奥さんは去年の年末に思い切って助役の私宅を訪ね、すべてを率直に打ち明けた。相手が信頼できる老人と思えたから、何もかも打ち明けて、どうしたら息子との関係を修復できるか、助言を求めたのだ。すると、老人は悪戯っ子のような笑いを見せて、「奇襲攻撃をかけたらどうですか」と次のような作戦を授けてくれた。

──来年の春には教員住宅を修復することになっている。その間、息子さんは分校に移っているから、工事の完成後、奥さんが先に住宅に入っているのだ。息子さんは、その後に住宅に帰ってきて、奥さんと顔を合わせることになる。が、まさか母親であるあなたを追い出すようなことはしない筈だ。そのあとは、奥さんの腕次第、息子さんをその気にさせて、夫婦の契りを結んでしまえばいい。一度、道がついてしまえば、男と女は離れられなくなるから。

奥さんは、ここで「でも、私たちは戸籍上母子になっているんです。それでも、構いませんか」と反問すると、助役は「構わん、構わん」と笑い飛ばした。

「都会と違って、田舎じゃ、夫婦が戸籍上、親子の関係になっているなんて話はいくらでもありますよ。それより、いっそのこと、小うるさい東京を引き払って、この村に永住したらどうですか」

そうだ、背水の陣を敷いて、思い切って相手のふところに飛び込んだ方がいいかも知れないと奥さんは思った、それで、東京の家を友人に売り払い、その代金を信託銀行に預けて、ここにやってきたのであった。タンスやちゃぶ台などは鉄道便で東京を発つ以前に送り出してあった。

(つづく)