ある村長の死
昭和15年に、35才の若さで長野県下伊那郡現豊丘村の村長になった胡桃沢盛(もり)が、昭和21年7月、41才で自ら命を絶った。胡桃沢盛がなぜ自殺したのか、妻にも長男の胡桃沢健にもその理由が分かっていたが、そのことを口外することを避けていた。
従って、精神科医であり脚本家でもある胡桃沢健の長男胡桃沢伸は、祖父が普通でない死に方をしたことを聞き知っていたが、詳しい事情を聞いてはいけないような気がしていた。だが、今度、飯田市歴史研究所が祖父の日記6巻を「胡桃沢盛日記」として公刊したので、これまで、おぼろげな形でしか氏の頭に入っていなかった祖父の生涯が一気に明らかになった。健氏は語っている。
「これまで節目節目で経験してきたことが、パズルを解くように一つに繋がっていく感じがした」と。
──そのパズルを「信濃毎日新聞」に掲載された増田正昭氏の記事を参照して、これから解いていってみよう。
胡桃沢盛は、村長になる以前は左派系の文学青年だったという。彼の青春は大正デモクラシーの全盛期に重なっていたから、彼がデモクラシー運動を乗り越えて社会主義者になるところまで突き進んだとしても、何の不思議もない。
彼がこの時期に、後の社会党代議士羽生三七と交流していたことも重視しなければならない。愚老はこれまでに社会党・共産党に所属する代議士たちの政見演説をいろいろ聞いてきたが、一番好感の持てる人物は羽生三七だった。彼の語り口は俗受けを狙わず、社会主義の本道を着々と訴えるというふうなもので、その語り方からは、左派政治家の良心が感じられた。
胡桃沢盛は、彼よりも一歳年長の羽生三七に兄事していたから、村長になってからも大衆のために働くという情熱を失うことはなかった。だが、その彼も時流に流されて、ナショナリズムに傾斜して行くことになるのだ。
大正デモクラシーが日本人の大衆心理に植え付けたものに、特権階級への反発があった。政界では長州閥・薩摩閥による「藩閥政権」が続き、産業界は三井・三菱の財閥が支配していたから、特権階級を攻撃する社会主義者・無政府主義者の姿勢は、民衆から一定の支持を集めていたのである。だが、政府が左派に対して厳しい弾圧を加えると、民衆の支持は左翼から右翼に移り、陸軍・海軍の青年将校らが政界・財界の大物やこれと結ぶ軍上層部を暗殺するテロ行為に走ると、国民の多くはこれに拍手を送るようになった。そして彼らは、「翼賛政治」を経て、負けると決まっている戦争に全面的に協力することになるのである。
胡桃沢盛がこうした時代の流れに抵抗できなかったのは、豊丘村が「村」という行政組織の末端に組み込まれ、昭和18年には「皇国農村」に指定されたからだった。この指定を受けた年に、胡桃沢は満州への分村推進に踏み切っている。それまでの彼は、政府の宣伝する満州開拓に反対だったにもかかわらず、「安易のみを願っていては今の時局を乗り切れない。俺も男だ」と日記に記し、昭和19年から翌年(敗戦の年)にかけて25世帯98人を満州に送り出すのだ。
敗戦の翌年の昭和21年になると、村から送り出した98人のうち73人が集団自決したことが明らかになる。敗戦の間際に満州に送り出され、現地について幾ばくもしないうちに自決したのだから、この73人は死ぬために海を渡ったようなものだった。胡桃沢盛は、この事実を知って身の置き所がないような気持ちになったのだった。
昭和21年7月、胡桃沢盛は、「開拓民を悲惨な状況に追い込んで申し訳がない」という遺書を残して、41才で命を絶っている。この遺書は現在見つかっていないし、死の直前まで書かれている日記にも、これに関する記述は見当たらない。彼が死ぬ前後の事情について、知りたいことは多々あるけれども、ここはあえて問わずに置くべきかもしれない。
──胡桃沢盛氏のように満州開拓民を送り出した自治体首長や、生徒たちに満州開拓を勧めた教師などを数え上げれば、「責任者」の数は、数十人に達する筈である。だが、その中で胡桃沢氏だけが自死しているとしたら、氏の精神の基底に社会主義者の魂が生き残っていたからなのだ。氏は村民を集団自決に追い込んだという罪の意識の他に、社会主義者でありながら戦争に協力したという恥の意識を併せ持っていた。だからこそ、氏は自分を許すことが出来なかったのである。
しかし氏の遺志は、息子や孫によって受け継がれているように思われる。
胡桃沢盛氏の長男健氏は、8歳の時に父に死なれている。高校時代の氏は、授業が終われば家に直行し、日が暮れるまで農作業に精を出したという。学校を出てから平和運動に情熱を傾け、22歳の時には安保闘争に参加、日本社会党に入党し、オルグ活動などで連日駆け回ったこともある。
孫の伸氏は精神科医・脚本家として反原発、沖縄の反基地闘争にかかわっている。大学では工学部に進んだが、就職先の企業が兵器を作っていることを知って精神科医に転身した。氏が沖縄における集団自決の史実を調査していることにも、祖父の死の影響が見られる。
それにしても、大正デモクラシーによって昂揚した民衆の気分が、平和擁護・人権尊重の方向に向かわないで、為政者の匙加減一つで、好戦的な方向に進んでしまうとは恐ろしいことだ。