川崎長太郎と良寛
「川崎長太郎自選全集」の三巻目を読んでいたら、巻末の解説を上田三四二が書いていた。その解説の中で、上田は、川崎長太郎と良寛の生涯が、実によく似ていることを指摘している。愚老が事の意外に驚いたのは、川崎長太郎と良寛では、人柄にしろ経歴にしろ、全く異なる存在だと思いこんでいたからだった。
では、まず、良寛から見てみよう。
良寛は越後の出雲崎に名主の子として生まれたが、幼い頃から本の好きな非社交的な子供だった。母が盆踊に行くように家から送り出してやっても、何時の間にか家に戻って来て、石燈籠のあかりで論語を読んでいるというような少年で、人がたくさん集るようなところが嫌いだったし、来客と応待することも好まなかった。
その彼が十六才で名主見習役となり、代官と漁民との間の紛争の調停に当ったり、囚人の斬首刑に立合ったりする生活を強いられたのだから、現世から逃亡したくなるのも無理はなかった。十八才の年に遂に彼は近くの曹洞宗の寺院にかけ込んで出家してしまうのである。長男だった良寛が出家したので、名主の職は弟が引き継ぐことになる。
良寛は、禅僧としての修業を主として備中国玉島の円通寺で行っている。ここで彼は二十二才から三十三才までの十一年間を過している。そして三十三才で印可を受けると、円通寺を去っていづこへともなく姿を消してしまうのだ。
良寛は三十八才になって郷里の出雲崎に戻ってくる。
帰郷後の最初の十年余は、空庵を求めて各地を転々とした。この時の心境は、「寓するところ便なれば即ち休す、何ぞ必しも丘山をたっとばん」という風なものであった。やがて国上山中腹の五合庵に定住するようになるが、それもここが気に入ったからというより、単にここに些少の便益があったからに過ぎない。近くには、実家の橘屋があり、名主をしている弟がいたのである。
帰郷した彼は「辛苦して虎になろうとしたが、猫にもなれなかった」とか「徒労を重ねて今日ふる里へ戻って来た」と淡白な表情で語り得るようになっていた。そして、郷里で、それ以後三十六年間に及ぶ無為乞食の生活を送るのである。
川崎長太郎の方はどうかというと、彼は父祖の代から続く魚商の長男に生まれているが、青年期にアナーキズムの洗礼を受けて家を飛び出し、上京して文学修行の日々を送るようになる。長男に家を飛び出された実家では、やむを得ず、弟に商売を嗣がせているところは良寛の場合と同じだった。そして、その長男が落ちぶれた中年男になって郷里小田原に戻ってくる点も、良寛と同じなのであった。
川崎長太郎が小田原に戻ってくるのは、良寛が越後に戻ってきたのとほぼ同年齢の数え年37才頃だった。
帰郷した良寛は弟の援助を半ばあてにして国上山の五合庵にこもり、川崎は実家所有の物置を譲り受けて小田原海岸で暮らすことになる。
更に両者の類似点を探るなら、彼らは老齢に達してから、女性とかなり濃密な 交渉をしている。70才になった良寛が、まだ若い貞心尼と相愛の関係にあったことはよく知られているし、川崎長太郎も70歳前後に二人の女から、相次いで結婚を求められている。
愚老は、昔から良寛にも川崎長太郎にも興味を持っていた。だから、この二人の経歴に共通するところがあると聞けば、改めてその異同を比較してみたくなるのだ。良寛も川崎長太郎も日の当たらない世界に生きた人間であり、どうやら日本人は中年を過ぎると、自ずとこうした人間に興味を持つようになるらしいのだ。
若い頃は、小説を読むと言えば、世界文学の傑作に限られ、日本の私小説などには洟も引っかけなかった。それが何時しか、自分の好みにあう日本人作家の作品を集中的に読むようになり、それを手がかりに私小説にも少しずつ目を向けるようになる。
これは映画についてもいえることで、従来、洋画ばかりを専門に見ていたのが、小津安二郎作品を手がかりに日本映画もじっくり鑑賞するようになり、溝口健二がいいぞなどと言い始めたりする。美術の愛好者も今まで梅原龍三郎の油絵に惹かれていたのに、何時しか淡彩の墨絵を愛するようになったりする。
以前は普遍的な世界・世界性を持った境地を求めていたのに、これと併せて個人的な世界・唯一独自の境涯をも賞味するようになる。これは、人には愛の対象を個から全へ拡げていこうとする平面的・拡張的な志向と並行して、それぞれの固有性に目をとめ個をじっくりと鑑賞しようとする点的・求心的な志向があるからだろう。
では、川崎長太郎から取り上げるなら、──
(つづく)