川崎長太郎と良寛(3)
良寛の生活は、簡素を極めていた。
日々の食事といえば、朝は粥一杯に胡麻塩。昼は麦めしに味噌汁一杯、夜はその朝昼の残りを混ぜ合せての雑炊というふうな具合だった。これらの食事に使う米・麦・味噌は托鉢によって近在の村々から得てきたものだから、行乞が困難になる冬場となれば、日々の食事にも難渋することになる。何しろ越後の国上山一帯は名にしおう豪雪地帯なのである。そうしたところで、後半生をひっそりと生きた良寛は、美しい短歌を残している。
山かげのいはねもりくる苔みづの
あるかなきかに世をわたるかも
あしひきの岩間をつたふ苔水の
かすかにわれはすみわたるかも
こういう良寛の晩年を飾ったのが貞心尼との恋愛だったから、後世、このロマンスが大きく取り上げられるのも無理はなかった。愚老はこれまでこのロマンスにほとんど興味を感じていなかったが、川崎長太郎と良寛を比較してみる必要から、この件について関係の本を少しばかり読んでみた。
すると分かってきたことがあった。良寛と貞心尼の関係に関する資料は、両者が取り交わした短歌以外に何もないという事実だった。この二人は僧職にあったから、当事者の二人が真相を告白することはなかったし、二人の関係について秘密を知っているものも両名の名誉のために沈黙を守っていたからだ。
後世の人間の下世話な興味は、二人の間に肉体関係があったか否かという点に絞られている。愚老は、状況証拠だけでも、二人が男女の関係にあったことは明らかだと考えている。
貞心尼の住んでいた北長岡から良寛の住んでいた出雲崎に行くには、山を一つ越えて行かねばならなかった。この山越えの道を一日で往復するのは、女の足では容易ではなかったと思われる。だが、良寛はもっぱら貞心尼を出雲崎に呼び寄せて、自分で貞心尼を訪ねて北長岡に赴くことはなかったらしいのだ。
現在でも、遠距離恋愛で男が一方的に女を自分の地元に呼び寄せているとしたら、それは肉体交渉を通じて男が女を支配する状況が出来ているからだ。男女が、まだそこまで行っていないうちは、男が女の機嫌を取る側にまわり、男の方からプレゼントを携えて女の地元に出かける──。
貞心尼が一方的に良寛の庵に通い続けたのには、二人が師弟関係にあるとPRする必要もあったからかも知れない。それに、当時、男の方から女を訪ねるケースとしては、妾宅を訪問する場合が大半だったという事情もあったに違いない。しかし、やはり貞心尼の行動から、良寛に身も心もささげた女性の心情がうかがわれるのである。
山道を歩いてやってきた貞心尼を迎えて、良寛は、早速、歌を作って相手を歓待する。
いついつとまちにしひとはきたりけり
いまはあい見てなにかおもはむ
貞心尼を呼び寄せた良寛は、まず、喜びの感情を歌にして相手に与える。良寛は久しぶりに訪ねてきた弟と、何をさておいても短歌のやりとりをして歓迎している。良寛は、世間話をするのが苦手で、他人と一緒にいても沈黙していることが多かった。貞心尼と再会する喜びもまた、歌によって互いの愛を確かめ合う充足感が中心になっていたのであった。
そんなことをしているうちに、暗くなったとしたら、貞心尼を山越えで帰宅させるわけにはいかない。貞心尼が良寛に会いに行くとしたら、一泊することを覚悟してのことだった。貞心尼は長岡藩士の娘で、医師に嫁いだものの数年で夫と死別している。彼女は既婚者で、それなりに何もかも承知していたから、良寛の庵に泊まることに、さほどの躊躇を感じなかったと思われる。
こういう下地があったから、良寛が74才で病気になったとき、介護のために師の庵室に泊まり込んで、その死までを見届けることが出来たのである。これが第二の状況証拠である。貞心尼が良寛と知り合って死別するまでに僅かに4年、単なる師弟の関係だけだったら、30女が二人だけになる男の庵室に乗り込んで相手の死を看取るまで介護するだろうか。
貞心尼のこのような行動と、川崎長太郎をめぐる女たちの行動を比較すると、自ずと良寛と川崎長太郎の人間的差異のようなものが浮かんでくるのだ。
(つづく)