自己施肥型の男とその妻(3)
中島義道の母親は、狂っていたわけではなかった。にもかかわらず、彼女はなぜ夫を罵り続けたのだろうか。
それは、いくら妻が罵っても、夫が全く取り合わなかったため、妻の怒りが倍加し、妻の夫に抱くイメージが悪化の一途を辿ったからだった。妻の描く夫のイメージが、日に新たに悪化して行けば、その分彼女の怒りも日に新た燃え上がり、夫への敵意が癒えることはなくなる。
妻は、夫の塑像を自らの手で日毎に醜悪なものに作り替える。すると、そんな醜悪な男が自分の夫として存在していることへの苛立ちが前よりも強くなり、以前より激しい悪罵を夫に投げつけることになる。すると、夫の塑像はさらに醜悪なものになって、相手への敵意がいよいよ強くなる。妻は夫を悪罵してそのイメージを塗り替える都度、日々夫への敵意を増強させるという無限運動に落ち込んでしまうのだ。
こういう不可逆的な形で悪化し続ける妻の敵意を解消させるには、夫が妻と話し合って和解し、妻の心を溶かしていくしか方法はないのだが、自己施肥型の男にそうしたことを求めても無理なのである。夫の側にも、致命的な問題があるのだ。
自己施肥型の人間は、それぞれ独特な内面世界を擁している。中島義道の父親の場合、それはディーゼルエンジンの世界であり、この世界へは外部からたえず新しい情報が流れ込んでくる。これに随時本人による新しい着想が加わるから、内面世界は絶えざる変動を続ける。本人にとっては、この生成を続ける内面世界ほど気になるものは存在しない。だから、彼は妻が自分を何といって非難しようと、平然と聞き流していることが出来る。
彼らが妻子の訴えを聞き流して、自分だけの世界に籠もって泰然としていられるのは、自身を利己的な人間とは考えていないからだ。自分の世界はより大きな世界につながっている、だから自分の研究は何時の日にか、世のため人のために役立つ時が来ると信じているのである。
熊谷守一は小さな庭に籠もって、暇があれば草花や昆虫を眺めていた。一年の間、全く絵筆を取らなかったこともある。この低迷期に長女や息子が病死しているため、これは熊谷守一が餓死させたも同じだと非難する者もいたという。だが、熊谷本人は画家というものは本来描くべきイメージが完熟しないうちに絵筆を取ることを邪道だと考えていたから、非難されても一向に動じなかったのである。
この手の自己施肥型の人間は、意外に多いのである。森博嗣が父親について書いたものを読んだら、彼の父はこのタイプの典型で、引退後は一日中お気に入りの椅子に座って、ラジオを聞いたり本を読んだりしていたという。一人暮らしをしている父を慰めようと息子が訪ねて行っても、長居をすると、「お前、そろそろ帰ったらどうだ」と帰宅するように促されたという。
「死の棘」の夫の島尾敏雄もこのタイプだったらしいし、他人から大事にされることよりも、放っておかれることを望む愚老なども、このタイプに属するかも知れない。自己施肥型の男は、夫としても父親としても不適格者で、生涯独身で過ごした方が世のため人のためになると思われる。こういう男が結婚するとしたら、妻にはやはり自己施肥型の女性を選ぶべきだろう。愚老が格別夫婦断絶というような状況に陥らず、何とか仲良くやっているところを見ると、家内もまた自己施肥型の性格かも知れない。