自己施肥系の男とその妻(2)
中島義道の「愛という試練」(副題「マイナスのナルシスの告白」)は、こちらが予想したような内容ではなかった。これまでの著者は、その「あとがき」でも触れているように「えげつないまでに私事を語」ることを常としていた。特に両親の不仲について、これ以上はないというほどあからさまに事実を暴露してきたのだが、その彼が今度はこの著書で、贖罪のためなのか、自分自身の罪についてたっぷりと告白しているのである。
例えば、彼は最終章の最後の節「私は私でしかない」の中に、「妻や息子や姉妹など、私の身近にいる者はこのような私ゆえに苦しんでいる。私がこれまで愛した(ふりをした)少数の男女は、やがて私の自己愛の強烈な臭気がたまらなくなり、身を振りはどいて逃げ去っていった」と記し、肉親や家族との個々の関係について、次のように告白している。
姉との関係=「愛を強要するクリスチャンの姉とは、母の葬式後最終的に縁を切った。彼女の一言一言が私の信念に反し、彼女の一挙手一投足が私をいらだたせるからである」
妻との関係=「五年前の夏、ウィーンで屋上から石のヴェランダに落ち、左脚五カ所を手術するほどの大怪我をした妻は、そのときの私の冷たい態度から私を『愛がない恐ろしい男』と最終確認し、私に『執行猶予』を宣告し、そのままの状態でいまに至っている」
息子との関係=「完全に妻の側についた(現在)十八歳の息子も、この四年間私を身体全体で拒否している。いや、われわれ夫婦にはっきりと有罪宣告を突きつけている。時折、『ぼくがどんなに苦労してきたか、わかるか!』とどなり、いつもひとりで食事し、私とは絶対に話をせず、家の中ですれ違うときは身を大きくよじってすり抜ける」
そして彼は、最近、(家から追い出されて?)ホテルで暮らさなければならないようになった事情についても率直に語るのだ。発端はやはり一家がウイーンで暮らしていた頃にさかのぼる。
中島義道は国立歌劇場で上演されているオペラが見たくなって、前売りの入場券を手に入れようとあちこち当たってみたが、券は一枚しか残っていなかった。それで帰宅した彼は妻に、仕方がないからひとりで見に行くよというと、妻は激しく反対する。オペラに一人で行こうなどと考えるのは、愛がない証拠だというのである。
それで中島は妻と一緒に別のコメディーを見ることになったが、案の定、それは面白くなかった。それで帰途についてから、思わずこう呟いてしまうのだ。
「おまえのこと愛しているのかなあ」
すると妻は夫の腕から手を離し、さっさと先にたって歩き始めた。地下鉄に乗ってからも暗い窓の外に目をやって、物もいわない。自宅のある集合住宅の階段を上る時になって中島は怒りを爆発させる。
「何で黙っているんだ」
気がつくと彼は妻を壁に押しつけ、息子のために買ったケーキの箱を妻の手から奪い取って、それを靴で踏みにじっていた。・・・・その後で彼は妻と息子から、嫌悪の目で見られるようになり、彼自身も大いに苦しむことになる。彼は書いている。
<ああ、おれはやはり生きている価値のない人間なんだ、と泥沼にたたき込まれたような気分になる。ああ、おれは妻でさえ息子でさえ愛することができないんだ、そんな人間が生きていてもしかたないじやないか‥‥>
中島義道は、繰り返し自分が「愛する能力を絶望的に欠いていた父親」と相似型の人間であることを強調してきたけれども、こういう反省をするところを見ると父よりはむしろ母親に似ているように思われるのだ。
父親だったら、オペラの券が一枚だけしか手に入らなかったら、妻には黙って一人で劇場に出かけたであろうし、妻と一緒につまらない芝居を見たとしても、そのことに格別腹を立てることなどない筈だった。
中島は父親が自分に対していかに無関心だったか、冷淡だったか、具体的な事例をいくつもあげて説明している。相手に対する恨みつらみを列挙して父親を責め立てるところは、母親が夫を追求する手法と同じなのである。中島の内部には、父親よりも母親がより強く生きており、だから自分を責める場合にも内なる母親が姿を現して、「こんな人間は生きていてもしかたないじゃないか」とまで宣告するのだ。
この本の中で中島は母親を「死の棘」のヒロインと比較している。
「死の棘」は恐ろしい作品であった。浮気をした夫を、妻が責めて責めて責め抜く戦慄すべき小説だった。夫は頭を畳にすりつけて謝罪し、もう二度と浮気はしないと誓う。夫が自尊心を投げ捨て、全力で妻をなだめ、ようやく相手を落ち着かせたと思ったら、ものの数刻も立たないうちに、妻は、また、夫を責め始める。さっきと全く同じ理由で、同じ口調で、最前の夫の謝罪などなかったかのように責め立てる。だから夫は振り出しに戻って、もう一度詫びたり誓ったりしなければならなくなる。そして、やっと妻を落ち着かせたと思ったのも束の間、妻はまたもや振り出しに戻って夫を責め始める。この無限運動に似た繰り返しで作品が構成されている。こうした描き方をされて、初めて、嫉妬に狂った女と暮らす男の恐怖が読者に伝わってくるのである。
中島の本がすぐれている点は、彼の母親がなぜ夫を非難し続けるのか、そのメカニズムのようなものを読者に理解させてくれるからなのだ。「死の棘」の妻は半分狂っていたから夫を責めに責めたのだが、中島の母親が夫への怒り燃やし続けたのは、怒りの燃料を自分で作り出し続けたからだった。
(つづく)