日本への違和感(4)
新聞のTV欄には、各テレビ局の番組表がずらっと並んでいる。その番組表の中に記載されている映画は、ほとんどすべてが過去に上映された映画を再上映するものだ。だから、これまではそれらの作品名を目にしても食指を動かすことはなかったが、先日、番組表に「ギルバート・グレイブ」という映画の題名が載っているのを見たら、瞬間、胸が少し騒いだのである。
この映画を、昔、テレビで見たことがある。そして、ある種の感銘を受けていたから、その題名を目にしただけで、胸が騒ぐのを覚えたのだが、肝心の映画の中身は全く記憶していなかった。何しろ洋画ファンの愚老は、これまでに数百本の外国映画を見てきている(数百本というのは誇張でも何でもなく、テレビを見るようになってから半世紀以上たっているから、一年間に10本の映画を見ただけでも、50年間に500本の洋画を視聴している勘定になる)。
「ギルバート・グレイブ」を半分ほど見ているうちに、ストーリーの中身が徐々に蘇ってきた。
ギルバートは小さな食料品店に勤めながら、4人の家族を養っている孤独な青年だった。父親は17年前にふっと姿を消したと思ったら、自宅の地下室で首を吊って自殺をしていた。ショックを受けた母親は7年前から家にこもり、長いすに座ってテレビばかり見ているという生活を送るようになった。
その結果、彼女は異常に肥って陸に打ち上げられた鯨のような体になっている。近所の子供たちは、その巨体を見物するため家の周りをうろつくので、ギルバートは彼らを抱き上げて窓から母親をみせてやったりしていた。
弟のアーニーは、18歳の誕生日を間近に控えている知的障害者だった。ギルバートは弟が入浴するときには服を脱がせ、体を石鹸で洗ってやらなければならなかった。二人で外出するとき、ギルバートが弟をおんぶしてやることも多く、彼が弟に、「お前、大きくなったな」というと、「兄さんが縮んだんだよ」と答える。自分が成長して大きくなっていることに気づかない弟は、兄がだんだん小さくなり縮んでしまったと勘違いしているのだった。
このほか家には姉と妹がいたから、ギルバートが自分の乏しい収入で養っている家族は計4人になるのであった。彼には兄がいたが、家を出てしまって、もう戻ってこない。彼も兄のようにこの退屈な田舎町を出て、広い世界で活躍したいと念じながら、諦めて生家に留まっているのである。
ギルバートは、心の空虚を埋めるために人妻と不倫の関係を持っていた。相手は保険会社の支店長夫人で、多くの男たちから目を付けられている美女だった。あるときギルバートが数ある男たちの中から、どうして自分を選んだのかと夫人に尋ねたことがある。すると、相手は「あなたがこの町から離れられない立場にあることを知っているからよ」と答える。
夫人はギルバートに会いたくなると、食料品を自宅に届けてくれと電話し、ギルバートが現れると家の中にいた子供二人を庭に追い出して男と抱き合う。支店長は妻の不倫に気がついているらしく、夫妻がいざこざを起こしていたある日のこと、彼らの幼児が庭の水遊び用タライの中で溺死する。
この映画は首尾一貫した明晰な作品なのだが、支店長夫人がギルバートを愛人に選んだ理由や、保険会社支店長の子供がなぜ溺死したのか、そしてその責任は夫妻のうちのどちらが負うべきなのか、その辺が愚老には理解できなかった。こちらの頭も、以前に比べて惚けてきているのである。
さて、ギルバートの弟には、何度注意しても高い鉄塔によじ登る困った癖があった。その都度、警察が出動して大騒ぎになるのだったが、そういうときにはギルバートもその場に駆けつけて弟をなだめ、塔から降りてこさせていた。ある日、トレーラーハウスで現地に逗留中の若い娘ベッキーが弟を宥めようとして苦労するギルバートを見ていた。彼女は祖母と一緒に各地を巡遊する旅に出ていて、トレーラーが故障して動かなくなったため、エンジンの部品が届くまで、この地に滞在することを余儀なくされていたのだ。
ベッキーは食料を店に買いに行って、ギルバートと親しくなる。ギルバートは積極的に自分に接近してくるベッキーの懇請を容れて、彼女を自宅に連れて行って母に会わせることになる。ベッキーと母親の会話はスムースに進んだが、母はベッキーが帰った後で、見苦しい自分が階下のリビングを占領していては、今後、ベッキーもギルバートのところへ訪ねて来なくなるかもしれないと、自分の寝室がある二階に移る決心を固める。そして、息を切らしながら独力で二階に上がり、自身のベッドに横たわった後で息絶えるのだ。
ギルバートの母が亡くなったことを知って、隣人や警察官らが集まってくる。問題は死者の巨体をどうやって戸外に運び出し、墓地まで運ぶかということだった。役人が、「軍隊に頼むしかないか」と呟いて引き揚げて行ったあとで、ギルバートは姉と妹に提案する、母を自分たちで運びだそうと。
彼がそのために起重機を使うことを提案すると、妹が身を震わせて「みんなが集まってくるわ」と異議を唱える。彼女は、生きている間、見世物のように好奇の対象にされてきた母が、死んでからも同じように扱われることに耐えられなかったのである。
ギルバートは方針を変えて、「ママを笑いものにはさせないよ」と誓う。そして、兄弟姉妹全員で貴重な家具・用度を戸外に運び出しておいて、母を二階のベッドに残したまま家に火を放つのだ。愚老がこの映画の題名を覚えていたのは、この幕切れの場面が衝撃的だったからだ。そしてギルバートは姉と妹が就職するのを見届けてから、弟を連れてベッキーのトレーラーに乗り込み町を去って行く・・・・これを日本人が映画にしたらどうなるだろうか。愛着のある自宅を丸ごと焼き払って母を火葬にするなどというような幕切れを思いつくのは、今はなき黒澤明監督しかいないだろう。そして母の巨体をのぞき見たがる子供を抱き上げて、窓越しに母を見せてやるというような場面を描くのは黒澤監督をもってしてもあえてしないにちがいない。問題のある母と弟を含む4人家族を支えて行くには、このくらいドライな人間にならないとやって行けないのだ。母を見たがってうろつく子供を追い払うには、母を見せてやるしかないではないか。
日本映画だとギルバートのように果断な人間を描く代わりに、情にからまれて動きのとれなくなった優柔不断な主人公や問題を解決する代わりに泣いてその場をやり過ごすヒロインが好んで取り上げられる。「泣いてください、泣かせます」が母物映画の宣伝文句だった。愚老はこうした和製ドラマに違和感を感じるから、本質においてドライで合理的な洋画を好むのである。
「ギルバート・グレイブ」という映画は、まず退屈な町を出たがっている主人公を描き、終幕で町を出て行く主人公を描いている。ギルバートが家を焼き払ったのは母を火葬するためであり、同時に自分を縛っていた足枷(あしかせ)を解き放つためだった。ストーリーとして実に首尾一貫しているのである。
(つづく)