開店休業を選択したいけれど
K氏≒ X氏が一週間たっても反論してこないため、この人物と論争することを諦めて、別の問題について記すことにした。
愚老は、数年前にもK氏のストーカー行為にうんざりして、ヤフーを退会したことがある。その時には、それまでに書いてきたブログを全部削除してしまったが、TAO.MATRIXという方が、これを復原して、読みやすいように題目別一覧表にしてくれたので、過去ブログが消えることを免れたのだった。
今回は、何人かの方から読み残したブログを閲覧できるように過去ブログを残して置いてくれという要望があったため、過去ブログを残す方法について思案しなければならなくなった。
すぐに思いついたのは、過去のブログをひとまとめにして、ホームページに移す方法を採用することだった。TAO.MATRIXさんのような技術や能力を持たない自分としては、ホームページに あらかじめ題名を書き込む枠を作り、これに過去ブログを一つずつ入れてゆくしか方法がなかった。幸いなことに、今日のことを予感したのかどうか、ホームページには空欄にしたままの枠が多数用意してある。
早速、作業に取り掛かろうとしてホームページを開いたのだが、そこでハタと手を止めてしまった。表紙に表示した「枠」にタイトルを打ち込むにはどうしたらいいのだろうか、そして、これとリンクしてホームページの中に 本文を挿入するにはどうすべきだったのか、その方法が全く思い出せないのだ。2〜3年前までは、日記や試論をどんどん ホームページに書き込んでいたのに、今はただ、とほうに暮れるばかりだった。
ホームページ作成のためのマニュアルは、商品と一緒についていたが、それはとっくに処分してしまって、手許にない。「オレの頭は、まだそれほどボケていない」と思っていたが、とんでもない己惚れだった。ホームページに残すという方法以外に、ログを残す手段が一つも思い当たらないのである。
あれこれ思案した末に、やっと思いついたのは、過去リストをコピーしてもらうという方法だった。
手順は実に簡単で、愚老のブログを全開にすると、上から二番目の段に「リスト」という項目がある。これをクリックすれば、その少し下の段に次の文字列が浮かんでくるのだ。
全63ページ 〔1〕〔2〕〔3〕・・・・・・
この〔1〕の数字をクリックすると、最近に書き込まれた数項目のブログを束ねた欄を読むことが出来る。さらにこの数字を追っていくと最後の数字は〔63〕になり、これをクリックすると、もっとも古いブログが出てくる仕掛けになっている。試みにそれを読んでみると、その冒頭には、こんな文字が並んでいる。
< 再開・甘口辛口
私は当ブログで、「甘口辛口」のタイトルのもと、数年間の書き込みを続けていました。私はこれまで天下晴れての少数派でしたが、このブログには、ある程度の読者が付き、一日平均200名の来訪者に恵まれるまでになりました。頭のぼけかかった86歳の老人にとっては、望外の幸運というべきでしょう。
ところが、好事魔多し、いつしかK氏というストーカーにつきまとわれるようになり.日々、陰湿な嫌がらせを受けることになったのです。それで、本年の3月10日をもってブログを閉鎖し、ホームページに引きこもることになりました。ブログに書き込むのと違って、ホームページに記事を載せるには面倒な手順が必要ですが、K氏がちょっかいを出すことを防ぐためには効果がありました。
ブログを閉鎖したことで、こちらは気持ちのいい毎日を過ごせるようになったけれども、欲求不満に陥ったのはK氏の方でした。それで彼は某ブログ運営会社に登録して、私を攻撃することのみを目的にしたサイトを開設し、人々に私を非難するメールを出すように訴えはじめたのです。彼はそうすれば、攻撃メールの洪水の中で、私が溺死すると思ったのです・・・・・・>。
その前の〔62〕には、こんな書き込みもある。
< 優しくて賢い日本人>
<東南アジアにおける日本人の評判は、時間の経過とともに大きく変化してきた。
田母神元空幕長は、太平洋戦争中、日本軍が東南アジアから欧米の勢力を排除してやったので、日本人は現地人から感謝されていたと自画自賛している。とんでもない話である。東南アジアの人々にとって戦争中の日本軍は怨嗟の的であり、まさに「東洋鬼」だったのである。
田母神の話とは反対に、感謝されていたのは日本軍ではなくて米英軍の方だった。反攻に転じた米英軍が、日本兵を東南アジアから駆逐してくれたからだ。日本兵が東南アジアの人々から、いかに嫌われていたかは、彼らが日本に原爆を落としたアメリカの行動を肯定していることでも分かる。
日本人の評判がよくなったのは、戦後になってからなのだ。野卑で乱暴だった昔の日本人が、戦後になって再び東南アジアに姿を現したとき、まるで人が違ったように温和で親切になっていたのである。私は、シンガポールの外交官が戦後に経済援助をしてくれたことについて日本に感謝したあとで、日本人を「やさしくて、賢い」と評している新聞記事を読んで、これは日本人に与えられた最高の賛辞ではないかと思った。戦争中の日本人について、そんなことを言ってくれるアジア人は一人もなかったのだ。
一体、昔の日本人はどうしてあれほど悪評に包まれていたのだろうか。
教育が悪かったのである。満州事変の翌年に小学校に入学した私は、学校で人権に関する授業を聞いたことが一度もない。男女平等とか、国際平和とか、ことヒューマニズムに関連する授業を受けたこともない。人道主義の話を聞いたことは全くないのである。
至る所で耳にするのは、日本に関する夜郎自大的な自己賛美であり、日本人に生まれたからには国のため天皇のために死なねばならぬという自己否定の倫理だった。岸田国士は、「日本人に聞かせるために、日本人が日本を賛美すること」を嫌ったといわれるけれども、戦前・戦中の日本では、自国賛美のPRを聞くことなしに一日も過ごすことができなかったのだ。
こんな日本だったから、日本軍の将校ですら、捕虜虐待を禁じたジュネーブ条約の規定を知らなかった。それで、捕虜を杭に縛り付けて度胸試しのために新兵に刺殺させるようなことを平気でしていたのである。現代の日本人には、こんなことを命じる指揮官は一人もいないだろうし、また、上官から捕虜刺殺を命じられたとしても、部下は命令を拒否するだろう。戦後日本の平和教育は十分とはいえないけれども、日本人に「人類みな兄弟」としての自覚をもたらすだけの効果はあったのである。その証しが、シンガポール外交官の「日本人は、優しくて賢い」という評価になってあらわれたのだ。
一昨日、NHKのEテレで全国中学校体育大会の実況放送を見ていたら、各分野で肌の黒い中学生が活躍していた。千五百メートル女子の部では、そういう選手がダントツの一位になっている。彼らはアフリカ系外人などと日本人との間に生まれたハーフで、日本人として中学校で学んでいるらしかった。
昔は、さかんに大和民族の優秀性が強調され、日本人がアジアの周辺諸国とは別種の人種であるかのような宣伝がされていた。だが、日本人は縄文系の人種と弥生系の人種の雑種であり、周辺諸国のいろいろな血が混じり合った複合系雑種民族なのだ。
この点は、文化においては一層甚だしい。日本文化ほど、世界各国の文化を寄せ集めた雑種文化はないのではなかろうか。現代の日本では、ナベツネにつながる三宅久之、桜井よしこなどの排外主義者が巾をきかせているが、そんなものに耳を貸す必要はない。どんどん国際結婚をして雑種日本人を増やし、世界に広く目を向けて多種多様な文化を導入すればいいのである。
そうすれば、「やさしくて賢い」という日本人への評価が世界的な規模で定着することになるのだ>。
・・・・・・ブログの構成はこんな具合になっているから、過去のブログを読もうと思ったら、リスト番号の1から63までをコピーしておけばいいということになる。そうした奇特な人のために当ブログを閉鎖するのを三か月ほど延期し、開店休業状態にしておけたらと考えている。
そして、もしK氏≒ X氏が、愚老のブログへの妨害行為を止め、ヤフーが寛大な態度で許してくれるなら、住み慣れたこのブログに復帰し、書き込みを再開したいと念じているのだが。