甘口辛口

「ハレ」型人間・「ケ」型人間(1)

2006/12/23(土) 午後 3:52
以前にも書いたことがあるけれども、賑やかな生活を愛する者もあれば、静かな生活を愛する者もある。この二つのタイプに対応するのが、実は「ハレ」型人間と「ケ」型人間なのである。

独りになるとみじめな気持ちになり、気のあった仲間とワイワイ騒ぎたくなるのは「ハレ」型人間だし、人々の中にいると圧迫を感じ、独りになってはじめて安らかな気持ちになるのは「ケ」型人間だ。話をもっと一般化して、常識的人間を「ハレ」型人間、個性的人間を「ケ」型人間と規定してもいい。

だが、この両者を性格類型として固定的にとらえるのは間違っている。たいていの人間は、この両者を共存させており、皆と騒ぐことを求めるかと思えば、一人になることを欲するのが人間というものなのだ。だから、これは性格類型というより気分に近いものだから、年齢と共に変化して昨日まで「ハレ」型人間だった者が、加齢によって「ケ」型人間に変わるということも起こりうる。

欧米の人間は、ハレとケを使い分けることがうまいようである。
彼らは書斎や仕事場にこもって好きなことをする「ケ」型人間をやりながら、定期的にサロンやパーティーに顔を出して「ハレ」型人間としての欲求も満足させている。日本人は両者を使い分けることが下手で、「ハレ」型系の人間は「ハレ」型人間として特化し、「ケ」型系の仲間を排除する傾向が強い。

外国でも生徒が登校拒否を起こしたり、若者がひきこもりになる例は少なくないはずだが、あまり問題になっているとは聞かない。日本でこの問題が大騒ぎされるのは、「ハレ」型と「ケ」型が性格類型にちかいまでに特化し、しかも「ハレ」型タイプが圧倒的に多いことから来ている。「ハレ」型が多数になれば、「ケ」型は自ずと異端者扱いされるから、いよいよ人の集まる場所を避けるようになる。

自分を例にとれば、私は青年期にはむしろ「ハレ」型のタイプだったが、病気療養中にだんだん「ケ」型の要素が強くなった。何しろ結核を治すには安静療法しかなく、毎日静かに寝ていなければならない時代だったのである。十年余をかけて病気を治して教職に復帰してみると、教師が団体で行動する場面がやたらに多いので呆れた。各学期の最終日には、必ず慰労の宴会があり、年に一度は全員参加の職員旅行がある。その他、職員会議とか研究授業後の研究会とか、会議と称するものがむやみに続くので、私はすっかりうんざりしてしまった。

復帰一年目はいわれるままに職員旅行にも宴会にも顔を出していた。次の年に、それらへの不参加をきめたら、係の同僚から厳しくなじられた。
───「全員が好きで参加しているんじゃないぞ。職場の親睦のためだと思うから、皆、無理して顔を出しているんだ」

こちらはひねくれ者で、非難されれば逆に居直る悪い癖があるから以後も欠席を続ける。そして、次の赴任校に行っても、団体行動にはほとんど参加しなかった。「集団行動には不参加」という態度を公然と押し通して行くと、「人間嫌い」「へそ曲がり」「ひねくれ者」というような陰口を叩かれはするが、それ以上の「迫害」を加えられることはないのである。私は、周囲に自分のことを「変人」として認知させれば、たいがいの行動は黙認されることを知ったのだった。

だから「ケ」型の人間は、学校や職場であまり萎縮している必要はないのだ。腹をくくって行動するなら、学校でも職場でも「あれは変人だから」とアウトサイダーとして行動することを黙認してくれるようになる。そして、こうした変人が多くなれば、多数派優先の日本社会も少しずつ変わり、「ケ」型人間にとっても住みやすくなるのだ。

世の悪徳政治家は、すべて「ハレ」型人間から輩出されている。「ハレ」型人間の最悪の部分を知ろうとしたら、俗情に媚びる右傾政治家を見ればいいのだ。

パック・イン・ジャーナルの出席者の一人が、「教育基本法」問題について世界の見方を紹介していて面白かった。日本の教師は世界的にはかなり高い評価を受けている、反対に日本の政治家に対する評価は極めて低い。その低評価の政治家が、居丈高に日本の教育を悪くしたのは教員の責任だと決めつけて、「教育基本法」を変更したのである。

安倍晋三一派の政治家は、タウンミーティングのやらせなどで、日々、日本を道徳的に腐敗させている。そのくせ、口をぬぐって日本を腐敗させたのは戦後民主主義だと強弁するのだ。少数派は、こんな破廉恥なグループを抱え込んでいる「ハレ」型人間に遠慮する必要は毛頭ないのである。